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トイレの歴史

わたしたちの日常に欠かせない、「排泄」。
しない人はいない、そしてこの行為に苦しむ人たちも多くいただろう。
人は生きるために食べる、そして出す。それを放置すれば、害虫や菌が湧き不衛生であり、「不浄」と忌み嫌われるのは当然の考え方である。

道端で排泄をしてはいけませんね。

今の世の中、人前や公衆の道端で排泄をすることはありえない。それは恥ずべき行為であるし、公共の場を穢すこともできない。
しかし、トイレは必ず近くにあるとは限らないし、近くにあったとしても思うままに使用できるとは限らない。

ああ、トイレ。
筆者もトイレで苦しんだ過去が多々あり、腸過敏性症候群ともいうのか、「トイレが近くにない」と考えるとパニックになることが今でもある。

旅が好きだが、電車やバスなど乗り物に閉じ込められ、トイレに行く自由が遮断されたと気づいた時に「もし便意が沸いたなら…!?」という恐怖症に苛まれることが多い。年中お腹が弱いかもしれない僕は、これはコントロールすることもできず、不意に咄嗟に訪れる便意に、もはや「来たらどうしよう?」という恐怖すら便意と区別できなくなる。

安心感を得るためにトイレに駆け込むこともある。
それは必ず安心を得られることもない。
先に使用している者が理解できないような長時間の占拠をしていることもある。時間とトイレと戦うことも。また、故障していたり清潔でなかったり、拭くものがなかったり。

いったい、トイレの理想的な形とはどういうものなのだろうか。
将来、科学が発達し、いつでもどこでも清潔にできるようになる?
しかしながら、歴史好きとして、トイレの歴史を知ることで、今のトイレが実に清潔で、安全で、ややもすれば快適であることがよく理解できる。

たとえば、紙。僕の親の代まで「新聞紙」が落とし紙だったことを考えれば、今の柔らかいトイレットペーパーの感触は、快適を通り越して幸福感も感じられる。

今回は、そんなトイレの歴史をおさらいし、これからのトイレの在り方や私たちの生活の在り方の参考にしてくれればと思っています。


下水道の整備

小平下水道ふれあい館です。画像の大部分は、この資料館のものですが、いくつか僕が各地の郷土資料館などで撮影したものもあります。

まず、近代までヨーロッパでは排泄は箱に座って(いわゆる「おまる」)用を足し、それを窓から路上に捨てるものでした。
これはもちろん後に大問題を引き起こし、そしてそれを乗り越えるために「下水道」という現代の考え方に発展していきますが、実は窓から降ってくる排泄物を避けるために「日傘」「シルクハット」「マント」が発達したり、道端に垂れ流される排泄物を避けるために「ハイヒール」が発達したり、臭いを断つために「香水」ができたとか。
また、川は排泄物などいろんなものが流れてくるため、「水=病原」という考え方もあり、あまりお風呂に入らなかったり。

一方で、日本は国土が狭く水がすぐ流れるためきれいな水に恵まれており。家屋にも履物を脱いで入りますし、草鞋ワラジや下駄などで土まみれになった足も家屋に上がる前に水たらいで洗って入ります。
江戸は銭湯も多く、1日に何度も通う人もいたとか。
そして、江戸時代にはトイレが家屋に1つは設置されたり、長屋など共同住宅では共用トイレも設置され。下水道はなくても、排泄物は農家が肥料として求めたため、基本は垂れ流しはなかったようです。
手洗いの習慣や家屋をよく掃除して清潔に保つなど、日本人は清潔を重視する習慣があるようで、これも近年の新型コロナという伝染病の流行において外国より感染者が少なかったことにつながると言われています。

とまあ、日本を美化することもできません。
つい40~50年ほど前は、大都市のはずれの町や村は基本は昔と変わらぬ汲み取り式で。農家など排泄物を回収する業者も、あまった排泄物は川に流したり、海に大量廃棄したり。
海水浴などやっていると、トイレで使われた「イチジク浣腸」の容器などゴミが海岸に溜まっていたり。
近年も割とその辺で用を足す日本人も多くいたり、歴史を見ていくと「今より不衛生極まりない」というところが多かったようで。
水洗トイレが普及して、下水道で排泄物を安全に処理するようになったのが、ほんの数十年前からだったのが意外ですね。

ロンドンのテムズ川では、排出された排泄物が上水道に流れこみ、人々の使用する水として利用されたため、ペストが大流行。これらの被害を乗り越えるため、下水道の建設がなされました。
日本も明治時代から下水道の整備が進みますが、先述のように農家の肥料としての利用が多かったため都市部ぐらい。川や海への垂れ流しも進んでいました。
下水道の中に入ってきました。
臭いはアレですが、ただただ茶色い水が流れるくらいで排泄物などは見られません。
新しい排泄物の再利用。

オススメの動画。リアルな下水がでてきますが白黒であるのに安心してください。肥料として田畑に撒かれる排泄物、そして大量に川や海に流される排泄物が衝撃的です。下水道の整備はとても重要なインフラなのです。

トイレの歴史

昔はトイレを、雪隠せっちんかわやと呼んでいた。
雪隠は中国からの言葉で、雪隠寺の禅僧がトイレで悟りを開いたから、だとか。厠は、縄文時代のころから主に川に木組をして用を足していたようで。
縄文時代の遺物には糞石なども見つかっているが、やはり溜めこむのも良くないので、川で排泄物を水に流した方がよかったよう。
しかし、やがて天皇による律令制の支配が進むことで、各地に国府など大都市や都ができるようになり、トイレの整備も行われるようになる。

これは、日本初の首都となった藤原京の水洗トイレ。川から溝を掘って他の川につなげ水を流し、その上に木を渡してそこに乗り。
トイレットペーパーの代わりには、籌木ちゅうぎまたの名を「糞べら」で、携帯したりすぐに捨てていたり。
また、穴に汲み取り式で用を足したり、トイレットペーパーも葉っぱや草、わらなどだったよう。
または、お尻を拭かなかったこともあったかもしれません。

日本が戦後、ソ連にシベリア抑留されていた人の話によると、ソ連では紙で尻を拭かなかったと。
なので、トイレットペーパーがなかったころは「拭かない」ということがあったことも考えられます。

なので、割と不衛生で、大便が感染源の寄生虫「蟯虫ギョウチュウ」の検査が2015年まで小学校で義務付けられていました。
蟯虫に感染すると夜中に肛門にてえもいわれぬかゆみに苦しみ、眠気とストレスで大変だったよう。
昔は民家に住む庶民などは、お風呂も水とたきぎの大量に用意するのが大変だったため、何日に1度とかで、皮膚病にもかかること多く、とても痒かったらしいです。これに解放されることで、現代のわたしたちはとても快適に過ごせますね。

目黒寄生虫館より。

平安時代の頃は、貴族は樋箱という、いわゆる「おまる」で用を足しており、下僕がそれを外に捨てていた。
当時は、「まろ(麻呂・麿)」という呼び方が多かったが、「まろ」は排泄やおまるのことを指す。子どもの死亡率が高かった当時、悪鬼(病や事故など不条理なもの)から守るためにわざと汚い名前をつける習慣はアイヌの文化にも共通しており、これはのちに武士などの幼名や現在も船の名を付ける「~丸」としても残る。
おまるがあるといいのですが、平安京の庶民たちは路上にも排泄を行っていたようで、これが餓鬼草子という資料にも残っています。

排泄物を食べる餓鬼。たびたびの飢饉に苦しんできた日本ですが、一見貴族たちが雅な平安京も、今と比べれば阿鼻叫喚のような悲惨な状況だったかもしれません。

割と垂れ流しだった状況から大きな変化に向かって行ったのが鎌倉時代から室町時代にかけて。
農業が発展し二毛作(米をつくった後、冬などに麦など他の作物も生産する)も行われるようになると、これまで草木を肥料にするのでは足りず、牛馬や人の排泄物なども利用される。
権力者であったり豊かな身分のもの、武士などは、書院造の影響だったり、道端で倒されないように、家屋にトイレをつけるようになった。

江戸時代になると、トイレ付きの家が増えていく。

民家のトイレ

民家は、裕福でトイレの処理が容易であった家では家屋内に設置されているところもあれば、一般には臭いや清潔性から外にトイレが置かれることが多く、これが高度経済成長期前後の地方までは普通だった。
当然、水洗トイレはつい最近まで地方にはなく、汲み取り式。バキュームカーなども現在でも出動していることだろう。
汲み取り式の問題点として、トイレに何か落とす、もしくは自分が落ちる、はまる。
または、夜中に外に出ると真っ暗なために、夜中にトイレに行きたくない。
トイレの妖怪なども生まれたことだろう。

民家の様子。

家屋内に設置された小便器や大便器は、外の側溝や肥溜めにつながっていたと思われる。

農家は都市部のトイレの汲み取りに行ったり、のちにはそういう業者も生まれた。一見不浄で不潔な仕事で忌み嫌われることもあったが、彼らのおかげで都市部の家庭は排泄物の処理ができるため、ありがたい存在とも教えられた。
また、農家はこれらの排泄物を肥溜めに溜め、発酵させて、肥料として田畑に撒く。
田畑は、子どもたちの遊び場でもあるうえ、肥溜めに落ちる子どもも多くいた。

トイレもあるが、その辺の片隅に排泄するのも当然であり、「ちょっとお花を摘みに…」と用を足していたのだろう。
また、右下のように簡易な「小便桶」もあり、これも農家の回収対象になっていたのだろう。

たとえば、内藤新宿(今の新宿)などの宿場には、馬糞も多く落ちていたため、それを拾う多摩や世田谷などのあたりの農家も多く集まていた。
もちろん、今は肥料は化学肥料が一般的であり、このような業者は絶滅し、日本中に水洗トイレや下水道も整備されたため、間違っても道端で用を足してはいけません。まして山奥では、自然に分解されない食べ物なども摂っている私たちが排泄すると生態系や自然環境の破壊につながります。

長屋など都市部のトイレ

東京都水道歴史館や、深川江戸資料館からの資料が多いです。
農家と同様、外に共同トイレが作られ、その「造り」もドアが低く、上からのぞかれることも多かったとか。
まあ、江戸時代までプライバシーという考え方はありませんで、民家のつくりも個人の部屋というのはほとんど無いもので。

ただ、トイレットペーパーに紙を使うことも多くなり、特に浅草紙と言われる古紙のリサイクル(古紙を煮て処理するため、それを冷やす間に近くの吉原を覗きに行くことから「冷やかす」という言葉が生まれた)。
ここから地方でも、特に製紙技術が発達した江戸~明治(パルプによる洋紙の大量生産)あたりから「落とし紙」といって使い古した紙や新聞紙やチラシなどを戦後しばらくまで使っていました。

玉川上水など上水道が発達していた江戸ですが、先述の通り下水道は明治から少しずつなので、汲み取り式です。

近現代のトイレ

やがて、トイレも木製から陶器製に変わっていきます。
現在、世界でも画期的な発明品であるウォシュレットなどを発明したトイレメーカーのTOTOも、最初は衛生陶器を作る「東洋陶器株式会社」でした。
一度は、北九州市のTOTOのトイレの博物館に行ってみたいのですが…

桶川陸軍飛行場のトイレです。
僕の小学校時代も、小便はこのように壁にして、そして水で流すものだったような。

戦後、日本人の家やライフスタイルを大きく変えたのが、団地などの集合住宅。ここに、今の私たちのイメージするトイレが見られます。
まず、東京豊島区のトキワ荘。あの手塚治虫先生など多くの漫画界の巨匠がいた場所です。

トキワ荘は、おもに一人住まいの人々が集まる集合住宅ですが。
これが1部屋に1家が住む団地やアパートのトイレ。

和式ですね。和式トイレの世界的な特徴は、「前立て」があること。
実はこの前立て、なぜ付けられたのかがわかってないようです。
着物を掛けるためとか、前後を示すためとか、大事な部分を守るため、とか。

洋式トイレは明治時代に外国から伝わりました。外国では一般的に「腰かけた状態で用を足す」という椅子のスタイルですね。
日本人は、床に座ったり寝たりする習慣で「椅子」が広まらなかったのは何故でしょうか。建物が狭かったからか、床が地面より高い建物のつくりで、外国人のように「地面の上に直接住む」のではなかったからか。
テーブルも日本にはなく、食事は床に正座して各々が箱膳に食事を並べて食べてましたからね。

杉並区の郷土資料館の資料だったと思います。

トイレがこうだったのは、棟方志功の家のものだったようで。

トイレも、近年の世の中の動きで大きく変化していきました。
バリアフリーやユニバーサルデザインに配慮した「誰でもトイレ」。
そして、陶器に汚れが付かないようにTOTOが開発した水流や陶器の発明。
座りやすさや便器の掃除のしやすさや水の量が和式より少ないことにより洋式トイレの普及。温かい便座に、癒しの音がなる機械、自動開閉や自動水洗のトイレ。大きいショッピングモールなどのお店や施設では、「現在トイレはどこが空いているか」が見れるようにもなっています。

トイレと下水道の整備により、衛生面が発達し、伝染病も減少。
また、人も清潔になり、わずらわしさから解放できたり、効率性から手間も時間もかからなくなり、わたしたちは排泄問題以外に豊かな時間を割いて生きることができるようになりました。
また、TOTOなど日本のトイレの技術は世界の最先端を突き進んでいます。

まだまだ問題はありますが(モラル無き人々によるトイレの悪利用や地方ではトイレが少ないなど)、将来トイレはどう変わっていくものか。
考えると面白いものかもしれませんし、いつの時代にも悩まされるトイレ問題がまた1つ解決の一端となるのかもしれません。

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