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街道Jウォーク〜関ヶ原から柏原宿

江戸五街道の一つ中山道を日本橋から京都三条大橋まで、時をつむぎながら歩く。
木曽や飛騨の山々に濾過された美しい水で潤う美濃国、司馬遼太郎に「このあわあわとした国名を口ずさむだけでもう私には詩が始まっている」と呼ばせた近江国。関ヶ原を西に進み、今須宿を過ぎると、この二国を分つ小さな溝に出会う。かつてはその国境の溝沿いに並ぶ旅籠があり、宿泊客は夜になるとお互いの薄い壁越しに寝ながら話をしたという。

「常盤と申すは日本一の美女なり」、藤原呈子の雑仕女として「都の千人の美女から選ばれた」というから後藤久美子や井川遥より美しかったかもしれぬ。その常盤御前は16歳で源義朝の愛妾となる。平治の乱で義朝が討たれると、三人の子を連れ逃亡するが、母を人質に捕られ平氏の軍陣に出頭する。母と子らの助命と引換えに自らの命を捨てようとする気高き絶世の美女を、清盛入道は母と子らを放免し自らの愛妾とする。乳飲み子ゆえ残された牛若丸、幼少期は清盛を父と思い込んでいたという。

やがて常盤は平家の政治の道具として藤原摂関家の一条長成に嫁ぎ、牛若は鞍馬山寺に預けられる。すでに清盛が父を討った仇であることを知る牛若は、15歳で僧侶となり出家を促されると鞍馬山を逃げ、奥州藤原秀衡を頼り東国に下る。常盤御前は運命の嵐に巻き込まれた我が子に一目逢おうと京から平泉を目指すが、この関ヶ原の手前の地、山中の宿で賊に襲われ絶命する。常盤御前は息絶える前に「道端に土葬し高札をたててほしい。いとしい牛若丸が都に上る折に守ってやりたい」と宿の主人に頼む。

寝物語は続く、、実はその時、既に元服し源義経となった牛若丸は、母の身を案じ京に引き返す道中にあった。そしてなんと、関ヶ原のすぐ手前3里の赤坂まで来ていた。翌日、山中で母の悲劇を知った義経は宿の主人の助けを借り、母を殺した盗賊を誘き出し、見事に仇を討つのである。三年後、平泉で力をつけた義経は平家打倒のため十万余騎の大群を率いて都に上る。途中、山中に立ち寄り常盤の墓前で手厚い仏事をいとなみ冥福を祈った義経は、宿の主人に山中三百町の土地を与え、その恩に報いた。

常盤御前の墓に「その幹に牛もかくれてさくらかな」の句碑があり、牛若丸を慈しむ母の心情に涙を誘われる。寝物語の里で、それぞれの人生を歩み縁あって、この美濃と近江の国境越しに交わされた昔話。お江戸の将軍さまや大坂の太閤はんのお話より、やはり一番人気は牛若丸と常盤御前にまつわる悲しい物語であったに違いない。

今回は岐阜県は関ヶ原から滋賀県の柏原宿までの中山道8kmの歩き旅でした。

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