てつじーにょ

心はいつもサーティーズ。昭和三十年代生まれの計算苦手なエンジニア。時に記憶のかけらを拾…

てつじーにょ

心はいつもサーティーズ。昭和三十年代生まれの計算苦手なエンジニア。時に記憶のかけらを拾い集めながら、好奇心に突き動かされ、まだ見たことのない景色を求め、人情話を肴に徘徊するほろ酔い放浪者。

最近の記事

街道Jウォーク〜柏原から鳥居本

 江戸五街道の一つである中山道508kmを日本橋から京都三条大橋まで、道端にかすかに残る時代のかけらを拾い集めながらJウォークの旅は続く。  中山道柏原宿の東に浅井長政の所領境の長比城への登り口がある。この登山道の両側、東には「側溝の水は伊勢湾に流れる」西には「側溝の水は大阪湾に流れる」の立て札がある。両湾とも太平洋につながるので大分水嶺とは呼ばれないが、この登山道に降った雨は微かな勾配によって東西に分かれゆく。東に流れた雨粒は養老山脈の谷を下って三重県の員弁川かあるいは揖

    • 街道Jウォーク〜関ヶ原から柏原宿

      江戸五街道の一つ中山道を日本橋から京都三条大橋まで、時をつむぎながら歩く。 木曽や飛騨の山々に濾過された美しい水で潤う美濃国、司馬遼太郎に「このあわあわとした国名を口ずさむだけでもう私には詩が始まっている」と呼ばせた近江国。関ヶ原を西に進み、今須宿を過ぎると、この二国を分つ小さな溝に出会う。かつてはその国境の溝沿いに並ぶ旅籠があり、宿泊客は夜になるとお互いの薄い壁越しに寝ながら話をしたという。 「常盤と申すは日本一の美女なり」、藤原呈子の雑仕女として「都の千人の美女から選ば

      • 街道Jウォーク〜赤坂から関ヶ原

        中山道は途中険しい山道や川越えもある江戸五街道の一つで日本橋と京都三条大橋を508kmで結ぶ。「契りあらば六つのちまたに待てしばしおくれ先立つたがひありとも」大谷吉継辞世の句である。中山道西のハイライト関ヶ原は戦乱の嵐に散った魂を偲び愁う旅である。 赤坂宿を過ぎるとすぐ左手に昼飯大塚古墳の標識。農家の細い路地をたどると突然、全長150mの巨大な前方後円墳が出現する。4世紀末この地域を治めた豪族の王の墓で、多くの埴輪、勾玉、ガラス玉、鉄剣などが出土している。昼飯は“ヒルイ”と

        • 街道Jウォーク〜美江寺から赤坂

          中山道は江戸時代に整備された五街道の一つで、江戸日本橋と京都三条大橋を508kmで結んでいる。「片雲ノ風ニサソハレテ漂白ノ思ヒヤマズ」温暖化以前ならとっくに紅葉も終わってる霜月の下旬に、その旅は唐突に始まった。 旅の始まりは岐阜県は美江寺宿の西の呂久の渡し。そこは織田信長が岐阜在城から安土、京都への勢力拡大時に交通の要衝として揖斐川に設営させた渡し船の地である。戦乱の時をそして江戸時代の太平を経た1861年、孝明天皇の妹の皇女和宮が徳川家茂に嫁ぐ道中、この呂久の渡しを小舟で

        街道Jウォーク〜柏原から鳥居本

          大ヒットクルマ列伝〜色の記憶

          大ヒットとは、単に沢山売れたのではなく、その時代に生きた人々の心を打ったモノ に贈られる称号である。 チャットGPTに「世界中で一番人気のクルマの色は?」と尋ねると意外にも「白が一番」と答える。「イタリアは違うだろう、赤じゃないのか?」と問うと、「いえ、イタリアも白が一番人気です。ただ再塗装の人気色は赤です」とお答えになる。AI様が言うことには逆らえないが、白は人気色というわけでなく単に無難で汚れが目立たず下取りに有利と思う普通のヒトビトが世界中で多いってこと。 クルマと

          大ヒットクルマ列伝〜色の記憶

          デイズ in ジャカルタPart 3

          2022年の夏、”インドネシアのサッカー場で試合後に暴動が起き125人が死亡した”というニュースが流れた。東ジャワ州マランでライバルチームに敗れたサポーターがグラウンドになだれ込み警察がこれ以上降りてこないように催涙ガス弾を撃ち込んだ。しかしこれでパニックに陥った観客が出口に押し寄せて圧死したらしい。欧州でフーリガンが暴徒化し数人が死んだという話はあるが、あれは酔っ払ったイカれた連中の仕業であり、ほとんどがイスラム教徒であるインドネシアの事故は酒が起こした悲劇ではない。 ま

          デイズ in ジャカルタPart 3

          デイス in ジャカルタPart2

          現場のおじさんに最初に言われた。インドネシア語で覚えておくべきはマチェットとバンジルの二つのだけ。確かにこの言葉は、繰り返し身体で覚え染み付いた。 マチェットは渋滞。ジャカルタは東西25km南北25Kmの海岸沿いの平野に人口950万を抱える東京都に次ぐ世界第2位の人口密集都市で、20年後には東京の人口を抜くと言われている。一昨年の新型コロナの外出制限下でおっとできちゃった予定外妊娠がなんと40万人。去年の元旦に1万二千人の新生児が生まれた。少子化日本と較べると羨ましく若くて

          デイス in ジャカルタPart2

          デイズ in ジャカルタPart1

          ジャカルタのスカルノハッタ空港はとっぷりと宵闇に包まれていた。駐車場のむせかえる熱気はシンガポールのトランジットで少しは覚悟はしてたけど、日本の元旦の朝の寒さを知っている身には相当こたえる。迎えに来た運転手は英語も日本語も話せない。一夜漬けのインドネシア語で尋ねる「シアパ ナマ?(あなたのお名前は?)」「サヤ(私は)ルディオノ」。インドネシア人は太った金持ちと痩せた庶民に大別されるがルディオノは後者。良くも悪くもく典型的なインドネシア人だ。おしゃべり、陽気だが寂しがり屋、不便

          デイズ in ジャカルタPart1

          コブラツイストくらったみたいに

          オレも桑田佳祐もアントニオ猪木を信奉している。猪木の往年の必殺技コブラツイストのフレーズが巧みに入ったUNIQLOジーンズ地下鉄編CMは繰り返し何度見ても飽きない。桑田に“あの人歌上手いね歌手になればいいのに“ の少女のオチとずっこける桑田は最高!その歌詞の最後にくる”コブラツイストをくらったみたいに“のサビは西洋ポップミュージックを一気に飲み込んだ桑田の日本語万能ワールドの真骨頂である。 そして何度も口ずさむうちに気付く、コブラツイストは確かに”くらう”のである。リングのマ

          コブラツイストくらったみたいに

          大ヒットクルマ列伝〜マツダの魂

          大ヒットとは単に沢山売れたのではなくその時代に生きた人々の心を打ったモノに贈られる称号である。コスモスポーツは世界初の実用量産ロータリーエンジンをフロントミッドシップに搭載した2座スポーツカーとして1967年に登場した。昭和生まれの元若者は“帰ってきたウルトラマン“の地球防衛庁MATのパトロールビークルを思い出すはずだ。白いボディーに赤いV字のデカールだけのほぼ改造なしで未来感覚の特撮用のクルマとして迫り来る怪獣を背景に疾走していた。 ロータリーエンジンはドイツのヴァンケル

          大ヒットクルマ列伝〜マツダの魂

          Hotter than July in ジャカルタ

          パンデミックで迎えた2021年のジャカルタ。5月の断食月明けのレバラン連休も帰省禁止で何とか乗り切って少し皆ゆるんできた雰囲気はあった。そこにデルタ変異株が入り込んできた。 7月2日突然運転手から携帯に「Selamat sore,maaf saya positif swab test(こんにちわ、私は抗原検査で陽性でした)」のメッセージ。運転手は翌日のPCR検査もやはり陽性で、自分も完全なる濃厚接触者。ここから“暑い7月の揺れる心の旅”が始まった。 ちょうどその日からPP

          Hotter than July in ジャカルタ

          さまよふ魂〜絵画完結編

          気がつくとルーブル博物館の床に投げ出されていた。「何だよあのシワひげ爺さん乱暴に連れてきやがって」。頭がふらつき腰にも力が入らず大の字で寝たまま天井をボーッと見ていた。暫くすると、誰かの視線を強く感じて、ギクシャクと上体を起こしてその主に焦点を合わせた。「貴女でしたか。相手の心は見透かしているのに、自分の心は決して読ませない意地の悪い貴女に、また向き合うのが正直しんどいと思っていました」 レオナルド・ダ・ビンチは1452年4月15日にイタリアのフィレンツェ郊外で生まれる。こ

          さまよふ魂〜絵画完結編

          大ヒットクルマ列伝〜いすゞ117クーペvs初代ゴルフ

          大ヒットとは単に沢山売れたのではなくその時代に生きた人々の心を打ったモノに贈られる称号である。現在は商用車メーカーとして生き残っているいすゞが、乗用車フローリアンのスポーツバージョンとして1968年に世に送り出した117クーぺ。その流麗な曲線が奏でるスタイリングはまさに清楚な色香漂う貴婦人。一方、初代ゴルフは1974年にVWがビートルの後継として世に送り出した素直なメカ大好き少年のよう。 直線と曲線、カーデザインの世界で繰り返し争われてきた永遠のライバル。自然界に完全な直線

          大ヒットクルマ列伝〜いすゞ117クーペvs初代ゴルフ

          さまよふ魂〜絵画編その八

          セーヌ川沿いの古い宮殿のオレンジ温室であったオランジュリーはモネの『睡蓮』の連作を収めるために美術館に改造された。お目当ての睡蓮を見る前にどうしても見ておきたい一枚の絵がある。「モンマルトルのサンピエール教会」はパリで生まれ育ったユトリロ 31歳の作品である。サンピエール教会はモンマルトルの丘のサクレクール寺院の隣にひっそりと佇む。12世紀に建てられたロマネスク様式のこの古い教会をユトリロ は生涯にわたって描き続けた。 ユトリロの母ヴァラドンは恋多き女で、私生児ユトリロは祖

          さまよふ魂〜絵画編その八

          さまよふ魂〜絵画編その七

          昔の話である。小学校に入ったころ当時流行り出した文化センターで絵画と音楽の教室に通っていた。そこにはバレー教室もあり、空いた扉から中を覗くとフワッと白いフリルのスカートに白いタイツの女の子が踊っていた。誰かが言った「足の親指だけで立たされて、血まみれの親指の爪が剥がれそのあと鉄のように硬い爪が生えてくるとああやってつま先でクルクルと回れるのさ」 僕は踊る女の子のトウシューズが赤く染まってないか心配で見つめていた。 ドガは1834年にパリの銀行家の息子として生まれブルジョワ生

          さまよふ魂〜絵画編その七

          さまよふ魂〜絵画編その六

          オルセー美術館はかつては駅舎で、大きなかまぼこ屋根の下に10線以上のホームが敷かれていた。2月革命の1848年から第一次世界大戦1914年までの作品はここオルセーに収められ、それ以前の作品はルーブル、それ以降はポンピドゥセンターにと時代分けされている。さすがは芸術の都パリである。 暗い色調の三人の農婦が腰をかがめて何かを拾っている。その背景には、うず高く積まれた地主の小麦の山。旧約聖書には“穀物を収穫するときは刈り尽くすことなく、貧しき者のために残すべし”とある。「落穂拾い

          さまよふ魂〜絵画編その六