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街道Jウォーク〜鳥居本から武佐
江戸五街道の一つである中山道508kmを日本橋から京都三条大橋まで、道端にかすかに残る時代のかけらを拾い集めながらJウォークの旅は続く。
現在の鳥居本は街道沿いの何の変哲もない、少し寂しさも漂う街である。しかしかつてこの地には難攻不落の名城、佐和山城があった。今では本丸や西の丸の面影も殆ど無く、切り通しや大曲輪が地形として残るのみである。この城は鎌倉時代から近江源氏の佐々木定綱が館を構えたのが始まりとされ、戦乱の世、湖南の六角氏と湖北の浅井氏らが争奪戦を繰り広げた東西を分つ重要な城であった。やがて信長がこの地を平定すると丹羽長秀を主人とし自らの美濃から上洛の際の常宿とした。時は流れ秀吉が天下を取ると、三献の茶で秀吉の目にとまり太閤検地や朝鮮出兵で豊臣政権を支えた石田三成の城となる。
三成は佐和山城を五層天守に大改築し総構え普請とし交通の要所である鳥居本を大手門側とした。しかしその門前の賑わいも1600年の関ヶ原合戦を境に、三成の命と供に消えていった。関ヶ原の論功行賞として井伊直政が入城するも、関ヶ原での鉄砲傷の悪化で翌年死去。幼い嫡男の直継の家老木俣守勝が家康の命により佐和山城の1.6km西の琵琶湖畔に天下普請による新しい城造りに入る。
彦にゃんが「いらっしゃいまーせ」する彦根城は世界遺産登録の準備に入っている。幸いに明治の廃城令や太平洋戦争の空爆を免れたこの城は、大津城の天守閣や多聞櫓、佐和山城の石垣などが移設され、フルスペックを有する貴重な城として世界に誇れる名城となった。家康は直政亡き後も、全幅の信頼をおく井伊家をこの城の主人とし西に睨みを効かせた。そして井伊家は大老直弼が桜田門外ノ変で討たれるまで延々と200年以上もの間徳川幕府を支えた。多くの侍、公家や商人、庶民がこの中山道を歩きながら三成や井伊家の興亡とお家継承の執念に想いを馳せたに違いない。
彦根城に別れを告げて一路西へと進むと小さな町に突然、白亜の立派な建物がそそり立つ。こんなところに何だろうと近づくと“豊郷小学校旧校舎群”の看板があり、さらに何だろうと中に入る。ホールの小さな下駄箱の前でインド人らしき若いカップルが興奮したようにペラペラ喋り込んでいる。廊下に出るとこんどは四、五人の中国系の若いグループが階段の手摺りの真鍮の兎と亀の置物の前でワァートコ騒ぎながら写真を撮っている。一体ここは何だ?いぶかりながら2階にあがり突き当たりの教室を覗く。そこには大きな黒板があり太い字で「K-ON けいおん!」と書かれ、その周りに色とりどりのチョークでびっしり落書きがしてある。近づいて見ると日本語、英語、韓国語、中国語、多分タミール語、タイ語などで書き込んである。振り返えると教室の後ろは小さな舞台になっていて、そこにドラムやギターが飾ってある。
豊郷小学校は昭和12年に近江商人の一人で当時、丸紅の専務であった古川鉄治郎氏が私財を投じて建造し寄贈された。米国ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏が設計し当時としては珍しい鉄筋コンクリートで建てられ、水洗トイレや暖房設備を備え「東洋一の小学校」と呼ばれた。四コマ漫画から始まり平成21年にテレビアニメ化され大ヒットした、ゆるふわ系の「けいおん!(軽音楽)」の舞台となり今やアジアのおたくにとってアニメ聖地巡礼のベストスリーにランクインされているらしい。60年以上、子供達の掌で撫でられ続けた兎と亀の寓話の真鍮の置物飾りもアニメのシーンに描かれている。
“売り手よし、買い手よし、世間よし”の近江商人による郷土への恩返しは、朽ちることなくカタチを変えて東洋にその名を輝かせている。
今回は中山道“鳥居本”の佐和山城跡から少々Jォークの彦根城そして“高宮宿”の豊郷小学校、”愛知川宿“を経て近江商人発祥の地“武佐宿”までの28kmの旅でした。