娘との散歩に必携なのはやっぱりRICOH GR
そろそろ小学生にクラスチェンジしそうな娘は、先天性反抗期。
パパとのデートはお気に召さない。娘よ、それは同族嫌悪というやつだ。
まあ良い。
娘は最近、写真を撮るのにハマっている。
父親のカメラ愛に影響されたわけではなく、好きなアニメのキャラクターがカメラマンだったからだ。
そういうときはGRの出番である。
小さく軽く、子供でも簡単に撮影できる。
おかげさまであれだけ写真を撮られることを嫌がっていた娘ではあるが、GRだとお許しが出るようになった。
近所の散歩、GRは速歩きの娘を追いかける。
GRは散歩フォトに最適だ。
広角レンズの軽快でノンストレスな動きは、そのまま娘の時間軸へ並走させることができる。
子どもの時間軸は大人とは違う。
せっかちな僕は自分の時間軸を押し付けてしまうことが多々あるが、時間とは主観的な意味で平等ではない。
夏の蝉の時間軸と、我々の猛暑が早く過ぎ去るように祈る時間軸が違うように
花の盛りの時間軸も、これまた違う。
花の盛りの時間は虫たちを誘い、また違う時間軸を生み出す。
夕闇の花の美しさも時間の演出であり、それは宇宙とも繋がっている。
子どもの時間軸に合わせるとなると、やはりGRである。
気まぐれで柔軟かつ我儘な子ども時間の中でのその一瞬、それを撮れるカメラは数少ない。
その瞬間は子どもにはなんてことない一瞬だが、それは年月とともに忘れ去られていく感覚である。
時間の感覚は、年を重ねるごとに早送りとなり、勝手な編集により終わらない日常となる。
子どもの頃は違ったはずだ。
低い立ち位置からふと見上げた景色に、時間が止まってしまうほどの情報量があった。
写真は時間を止めることでその瞬間を永遠に記録することができるが、その時の自分の時間軸という感覚の余韻を残してもいる。
娘にGRを渡すと、そこらじゅうを好き勝手に撮りまくった。
意味のない時間を記録し、それを再生することなく積み重ねていく。
若さとはこのことをいうのかもしれない。
写真ばかり撮ってないで早く来いという娘を追いかけながら、時間軸の違いにより自らの老いという名の世界への堅苦しい構えを知るのであった。