カメラとレンズが与えてくれる偶然性、そして世界に新たな視点を
Leica summilux 35mm F1.4 2ndというオールドレンズで撮影した。
クセ玉といえばこのレンズが挙げられるであろう。
F1.4開放で撮影すると逆光でフレアやゴーストのオンパレード、さらにソフトフォーカスレンズのようなほんわりした雰囲気、そして荒れるボケ。
この凶暴な個性が愛されるのがライカ・・・といえばそうなのだが、このレンズでしか撮れない写真というのに僕は惹かれたのである。
絞りをF1.4にセットし、太陽に向けてレンズを差し出し、SIGMAfpのライブビューを覗くと、そこにはその瞬間にしか撮れない光がこれでもかと顔を覗かせている。
これくらいのクセ玉だと何が起こるか予測することは難しく、本当にいきあたりばったりの写真が目の前に現れるのだ。
僕はこれをエモいとか、個性的として処理したくはない。
もちろんこの不自然な光の挙動を狙って撮っている、しかしそこにある偶然性との会合こそが目的なのだ。
逆光で花を撮る。その辺に咲いていた何の変哲もない水仙。教科書的な撮影ではなく、偶然性との会合を求めた撮影方法だ。
するとどうだろう。その辺に咲いていた水仙が、時に驚くような姿として目の前に現れる。
偶然性とは作られるものなのだ。
以前書いた自己と世界の関係の結節点がそこに意図して意識される。
現在の自由に移動できない状況において、当たり前の日常の幸福、当たり前の異常性、当たり前の生活により起こされていた悲劇、そんな世界の新たな視点と同じような『意図して意識する』という経験。
目の前のありふれた景色が、レンズを通すことでここでは手に入れることはできないと思っていた当たり前ではない景色に変わる。
そこにあるのは本当の景色ではないが、これが本当の景色であるかも知れないという可能性。これが偶然性により惹起される。
現代の写真は、「歴史ある写真コンテスト的な正解」と「流行という名の力の流れ」がある。前者は廃れ、後者はインターネットの海でSNSから止めどなく吐き出されている。
写真は科学から技術となり、芸術になろうと藻掻き、気づけば生活の一部となった。
その中で写真の価値は刻み撒き散らされ、まさに雲散霧消して空気になった。
アート的な生産活動が現代の生きている実感を得るための重要な行為であるのは言うまでもないが、それは多様な企業によるマーケティングの掌の上にある。
流行とはSNS上の共同幻想が惹きつける「正解」であり、そこには「いいね」という名の大企業による情報収集への対価としての承認がある。
我々の無機質な生活の最深部までもが大企業の金儲けに利用されている。だから流行りの写真はシェアされ、それに感化された人々は新しい機材やアプリを消費する。
この流れは否定すべきなのか?そうではない。
この承認欲求への重力を否定してしまえば、現代社会はまさに空虚となってしまう。
空虚なのはたいていの人はわかっているが、それを忘れさせてくれる瞬間がなければ社会は成り立たない。
写真は手軽に世界と対峙できるツールだ。目の前の景色、見向きもしない道端、飽き飽きする通勤路、そこにカメラやスマホのレンズという視点があれば世界は変わる。
世界が「多元的な視点の寄せ集め」ということを再認識させてくれるのが写真だ。
情報化社会は人々をあるひとつの穴へ引き込もうと統制していくが、そこに反抗するのは自由なわけで、そのひとつのツールが写真なのだ。
従順成らざる反抗的態度として写真をするのも良し、ただなんとなくだけど楽しい写真は尚良し、ただカメラとレンズがあれば世界は一つではないと思えるのだ。
僕のsummiluxがもたらしてくれる偶然性は、世界にいくつもの視点を与えてくれる。
今回撮影した写真はすべて自宅から半径1kmの見飽きた小さな世界だ。