スティーブン・ショアの写真について
※ブログ記事を読みやすく文章だけに要約シリーズです。
最近スティーブン・ショアの写真集、そして写真論に強く惹かれている。
『Stephen Shore: Uncommon Places』を見ると驚愕する。
何気ないアメリカの田舎の景色、ノスタルジックではない、世界中どこにでもありそうな景色の写真。
だが、その調和された雰囲気にしっくりくる感じがして『心地よい写真』になっている。なぜか?
今回はそんなスティーブン・ショアの構図、そして調和された作為的かつ自然な景色という矛盾を克服した写真について。
ショアは、写真には秩序が必要であり、意思決定が撮影対象の内容を定義づけ、構造を作り上げると言っている。
秩序が無ければ、何のために写真を撮ったのかわからない。
対象を捉え、構図を見て、絞りやシャッター速度を調整して、シャッターを切る。
この選択の連続が構造を作るのである。
それでいて、その構造は自然の節度を超えてはならず、時代の様相を表すものでなければならないとシェークスピアから引用する。
写真の内容の理解を恣意的に誘導するための構造であってはならない。
古典的な型に嵌め込むのではなく、時代の様相を表すために自身が学んできたことに由来する独自の枠組みを当てはめて撮影していたという。
「型が透明になるにつれて、作家が目の前にある構造をどれだけ理解しているかが現れ始める」
要するに、撮影する際に構造を理解しようと試行錯誤しろ!という意味ではなかろうか?
ある程度写真を齧っていると、景色を見ただけで「正解」が見えてくる。
それはいわゆる古典的な型だ。正解とは行儀作法のようなもので、それを当てはめるだけで「っぽい写真」になる。
日本の写真コンテストで入選したり、SNSでバズる写真だ。
それはそれで素晴らしい。
だが、深く考察するまでもないわかりやすい構造になってしまう。
UNIQLOの定番商品を着ていれば、コスパも良くてとにかく無難だ。
だが、そこには個人の意志が入っていない。
目の前にある景色を、ベルトコンベア式に型に当てはめていくのではなく、景色の構造を理解しようとする試みが大切だとショアは言っているんじゃなかろうか?
それは「正解」ではないかもしれないが、まさに本質的な撮影行為だといえる。
写真に対して学び経験したことをぶつける、それこそ表現なのだ。
そのためには写真もだが、自分を理解しなければならない。
そう言われてみると、わかりやすい写真を儀礼的に撮っていた気がしてきた。
そう考えると、フィルムとデジタルで撮った写真を見比べた時にショアの言うことの意味がわかる。
デジタルだと何も考えずに良さそうな構図を保険で何枚も撮る。帰ってその中から良いものを選べば良い。
フィルムは違う、カメラの設定から「失敗できない」選択の連続であり、ちょっとの構図のミスも許されない。
これは経済的な理由だが、それはとにかく強い。
ショア自身、大判カメラでの撮影では経済的な負担が精神の集中をもたらせてくれたと話している。8✕10だもんね。
ショアの写真が「正解」という意味ではないが、撮影に望むスタイルはとても尊敬する。
10代から写真界のトップに君臨し続けながら、日々試行錯誤という名の「構造の理解」という苦行を続けている。
ショアは撮影機材だけでなく、そのスタイルまで時代に合わせながら攻め続けている。
中平卓馬にも通ずるが、一度世の中で絶賛されたスタイルを簡単に捨てるというのは並大抵のことではない。
常に探求し続ける生き様が素晴らしいのだ。
僕がショアだったら「Uncommon Places in TOKYO」という感じでシリーズ化して金儲けに走りそう(笑)
このような写真はわかりやすい。
構図から視線誘導先がパッと見ただけでわかる。
だが構造を理解しようとしたかと問われれば、微妙。
安易な型のトレースのような気もする。
それが悪いという意味では決して無くて、違う視点で写真を撮ってみたいという願望。
何故撮ったのか?
それがすぐ言語化できないということは、逆に言えばまだ模索中というわけであり、その模索という苦しみの中から生まれる写真というのは、それが過程であっても素晴らしいと思う。
よくいうマンネリとか飽きるってのは、結局この部分だと思う。
写真に対してもそうで、機材を変えたり、加工に凝ったり、SNSで評価を求めたり、そういう過程というのは苦しみの壁にぶつかった反動なわけで、そこから簡単に逃げるのではなくとりあえず対峙してみたいのである。
安易な逃げなのか、それとも闘争の果てのステップアップなのか、はてまた迷走?
それが写真の楽しさなんじゃなかろうか。
かくいう僕も紆余曲折の末、フィルムカメラを手にしてから一気に視界が開けたのである。
それは自分の写真のレベルが上ったとかそういうのではなく、撮影に対してのその時の自分に納得がいったのだ。
ただ撮影するだけではなく、自分を理解しようとする試みから生まれた納得感は、勘違いかもしれないが撮影への視界が格段にクリアにする。
この果てのない真理探求の哲学という名の自己満足こそが、写真の楽しさなのである。
これには高い高い授業料が必要だが(笑)
スティーブン・ショアの写真に惹かれるのは、「今」だからだろう。
今の僕には、スティーブン・ショアの写真が輝いて見える。
スティーブン・ショア自身も、数多くの写真家や芸術家に影響を受けていると言っている。
結局、これも彼のいう経験のひとつなのだろう。
ということで、最近は西洋絵画や浮世絵の本まで読み始めて、写真がますます楽しくなってきた。
『SIGMA fp』の拡張性の高さのおかげ?で自分がやってみたい挑戦にも簡単に対応できるようになったのも大きい。
それを「沼」ともいうが。
この写真集は、何気ないアメリカの田舎を大判カメラで撮影している。
これといったわかりやすい主題はない写真が大半を占めている。
交差点や住宅街を何気なく撮っているように見える。
が、とにかくそれがすごいのだ。スナップ写真のように通行人のハッとする瞬間があるわけでもなく、自由の女神像のようなわかりやすいシンボルがあるわけでもなく、構図に動きがあるわけでもない。
とにかくただ景色を撮っている。
しかし、ある批評家が「背景がない」と言っているように、全体が調和しているのだ。それが自然で恣意的な感じが一切ない。
車、ビル、標識、遠くで立っている人、電柱、その何気ないすべてが見事に秩序立っている。
これが構造なのか!とため息が出るのだ。
人間の視覚的な安心感があり、全体が調和し過ぎているからこそ目に止まりまじまじと眺める写真になっている。
だがわからない。
これが時代の様相を表しているということなのだろうか?
スティーブン・ショアは大御所なのだが、なぜか日本語で読める資料が少ない。
写真集も英語版しかないのだ。
この記事のショアの発言や文章の引用はすべてこの『IMA(イマ)Vol.32』のスティーブン・ショア特集から。
とても充実した内容なのでおすすめです。
本記事にはショアっぽくロードムービー的に撮った写真が載っています。
よろしければご覧ください。
スーザン・ソンタグも良いね!
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