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プラトン② ソクラテス丸分かり


前回記事「プラトン① イントロダクション」では、プラトンについての基本情報をまとめました。


今回はプラトンの師ソクラテスの思想について解説します。
 
ソクラテス自身は著作を遺しておらず、彼の思想は弟子プラトンの著作などから推測するしかありません(同じくソクラテスの弟子であるクセノフォンの『ソクラテスの思い出』という書物もありますが)。

しかしプラトンの初期の作品群はソクラテス(前470年頃ー前399年)の思想をある程度きちんと伝えていると考えられているので、ここでもその前提で話を進めます。

デルフォイの神託と「無知の知」


 
まずは彼の人生の転機となった出来事から始めましょう。
 
ある時、彼の友人がアテナイに近いデルフォイという場所にあるアポロン神託所で「ソクラテス以上の智者はいない」との神託(神のお告げ)を受けるという事件が起こります。
 
ちなみにデルフォイで神託を受けるという制度はギリシャがローマに吸収されてからもずっと存続して、西ローマ帝国の崩壊(紀元後5世紀)くらいまで約800年間も行われていたそうです。

国家が大きな判断をする際に神託を仰いだりしていて、神の言葉はきっちり記録をして保管されるなどかなり厳格なものでした。

かの有名なローマの暴君ネロがこのデルフォイで神託を仰いだ際、「穢れた者よ! 73という数字に気を付けるがいい」という神託が下り、その後、73歳の属州総督が起こしたクーデターでネロ帝は滅んだと言われています。

ただ、神託を行った関係者たちはすでにネロ帝に粛清された後でした。
 

脱線しましたが、時代を戻ってソクラテスの話に戻りましょう。
とにかく「ソクラテス以上の智者はいない」という神託が下ったわけです。

でもギリシャには多くの知識人がいたので、ソクラテス本人は「いくら神託とはいえ自分が最高の智者ということはないだろう」と思いました。

そこで神託が間違っていることを証明するために(笑)、彼はギリシャの知識人を訪ねて問答を重ねるようになります。

「ほら、神様、ここに私より賢い人がいますよ」という感じですね。
 
ところが、知識人たちとの問答を繰り返すうちソクラテスはあることに気づきます。
 
彼らは口こそ達者だが、「真理とは何か」「善とは何か」「智慧とは何か」「徳とは何か」といった肝心なことについて何も分かっていない……と。

しかも彼らはそういった大事なことについて何も分かっていないくせに、自分としては分かったつもりになっている。

自分(ソクラテス)だってそれらの肝心なことについて何か分かっているわけではないが、自分は「自分が何も分かっていないこと」を自覚している。
 

これが有名な「無知の知」です。
 
要するにソクラテスは「『真理を知らない』ということを自覚している」というただ一点において他の知識人よりも優っている……。

これが神託の意味だったのだとソクラテスは解釈します。
 
その後、ソクラテスは知識人や若者との対話によって真理を明らかにするという使命に邁進することになります。
 

魂に配慮し「徳」を磨け ~知徳合一~


 
では、そのソクラテスの教えの内容とはどんなものだったのか。
 
その特徴を一言で言ってしまうと……

魂への配慮」です。魂とは、「その人そのもの」です。
 
ソクラテスの哲学では「人間は不死の魂を持っており、時々、地上の肉体に宿る」という「転生輪廻」が大前提になっています。
転生輪廻はヒンドゥー教や仏教の専売特許ではないのですね。
 

肉体とはあくまで「仮に宿っている場所」「死ぬ時には脱ぎ捨てるもの」であって、「その人そのもの」ではありません。

もちろん肉体だって生きている時は大事にすべきですが、重要度においては「その人そのもの」である魂と比較することはできません。
次に生まれ変わった時は別の肉体に変わっているのですから。

これに対して魂は「その人そのもの」であり、自分が自分である以上、永遠に付き合っていくはずのものです。
 
 
ソクラテスの哲学は「自分そのものである永遠の魂をどのように立派で尊いものにしていくか」ということに焦点を当てたものでした。

この魂の立派さ(卓越性)のことを、「」(ギリシャ語でアレテー)と言います。

つまりソクラテスの言う「魂への配慮」とは、「魂を卓越したものにすること」「徳を身に付けること」と言い換えることもできるわけです。
 

ソクラテスは「智慧とは何か」「善とは何か」「幸福とは何か」など様々な問答を行っていますが、これらもすべて「魂を卓越したものにすること」と関係していました。
 
例えば「真の智慧」とは、魂を高貴にしてくれる(=徳を高めてくれる)知識です。そうでないものは真の智慧の名に値しません。
これをよく「知徳合一」などと表現しますね。
 
また「真の善」とは、自分そのものである永遠の魂にとってタメになるもの、つまり徳を高めるものに他なりません。

一般的に、財産・名声・美貌・肉体的快楽なども「善いもの」とされますが、これらは一時的なものにすぎません。
長く続いたとしても死んでしまえばリセットされてしまう儚いものです。
 
彼は「真の幸福」についても同じように考えます。ソクラテスに言わせれば、上に挙げたような儚いものに幸福を感じても仕方ありません。

真の幸福とは、自分と永遠に関係するもの(=自分の魂)について感じるものです。

真の幸福も、やはり魂の立派さである「徳」にこそ感じるべきだということになります。「心を磨いてこそ幸せになれる」というところでしょうか。
 

真の幸福とは、徳(魂の高貴さ)を磨く中に生まれる。

こうした考え方は、弟子のプラトンはもちろん、さらにその弟子であるアリストテレスにも受け継がれています。
アリストテレスの幸福論は、この辺りのことをもう少し理論的にまとめていると言えるでしょう。
 

肉体を自分だと思い、その肉体中心の発想をするならば、これとはまったく違った結論になるでしょう。

人を騙してでも出世していい暮らしをすることが「智慧」、カネや地位や異性こそが「善」あるいは「幸福」ということになるかもしれません。

その意味で、ソクラテスにとっては、肉体とは「真理を曇らせるもの」でしかありませんでした。

哲学とは「死の訓練」である。



とは言え、人間には神々から与えられた使命があるので、勝手に自殺をするのは罪であるとソクラテスも念を押しています。

しかし、人間の魂は肉体に宿りながらも、なるべく「肉体を離れた発想」を目指すべきであり、哲学はそのためにあると考えたのです。
この「肉体を離れる」とは「死ぬ」ことです。

つまりソクラテスにとっての哲学とは「もし自分が死んで魂だけになったらどう考え、どう行動するか」という思考訓練であることになります。

その意味で「哲学とは死の訓練である」と言われます。
 

また肉体中心の発想で誤った考え方に染まって生きると、魂は堕落していきます。真の徳とは離れていくのです。

しかし正しく哲学をすることで、間違った見解に染まらず魂を堕落させずに済みます。
だから、哲学とは「死の訓練」であると同時に「魂の浄化」でもあるというのです。
 
ソクラテスの哲学は人々の精神を向上させることを目指す「精神修養」という一面がありました。
死後の世界を前提していることといい、宗教と捉えてもいいくらいの内容です。他の宗教よりも、論理や言論を多少重んじているだけとも言えます。
 

泰然として死す


 
さて言論活動を続けていたソクラテスですが、その過程で多くの知識人たちを論破していきます。

当然、論破された側にとってみれば「恥をかかされた」わけで、そうした人たちの恨みを買っていきます。

ソクラテスは彼を恨む人たちから「国家が認める神々を信じない罪」「青年たちを惑わした罪」などの適当な罪状で訴えらえ、市民たちの裁判にかけられることになります。

ここで行ったソクラテスの演説がプラトンの『ソクラテスの弁明』に記録されており、不朽の名著となっています。
 

当時の市民裁判は二段階になっていたらしく、①まずその人が有罪か無罪かを投票で決め、②その次に量刑(どのくらいの罪か)を投票で決める、という仕組みでした。

この最初の「有罪 or 無罪」の投票で、ソクラテスは結構ギリギリで「有罪」になりました。

つまりソクラテスへの同情票もかなり入っていたわけで、ここで聴衆におもねれば死刑などの重い刑は避けられる公算が高かったのです。

しかしそこはソクラテス、凡人とはモノが違います。むしろギアがもう一段上がっちゃいます。

自分の量刑を決める市民たちに向かって「説教」を始めてしまいました。

アテナイ人諸君、あなた方は優れた国アテナイの民でありながら、金銭や評判や名誉のことは気にかけるのに、なぜ英知や真理や魂のことを気にかけないのか?

優れたものになる心がけをしないことを恥ずかしいとは思わないのか?


これによって聴衆は激昂、圧倒的多数で死刑が決定します。

ソクラテスにとっては自分の命を長らえることより、人々に「魂への配慮」を訴えることの方がはるかに重要だったのです。
 
こうした言行一致の姿勢こそ、ソクラテスが後世まで偉人として尊敬される理由でしょう。

彼は単に口先で「死など肉体と魂の分離にすぎない」「死はむしろ喜ばしいこと」と言うだけではなく、それを身をもって示しました。
友人たちによる脱獄の計画も一蹴して、平然と死を選びます。
 

プラトン著『パイドン』には、ソクラテスが毒杯をあおって死んでゆく場面が描かれています。

もしドラマにするなら「お涙頂戴」的なシーンにしたいところですが、残念ながらソクラテスには「涙をこらえ家族を振り切って戦地に赴く兵士」のような悲壮感がまったくありません。

そこでは毒が回って体がだんだん動かなくなって死んでいく様子がリアルに描写されていますが、ソクラテス本人は最後まで平然としています。

むしろ周りが悲しんでいるのをちょっと迷惑がっているくらいです。
 
歴史を眺めると、数は少ないものの、自らの命を惜しまずに使命に邁進する人たちが確かに存在します。

ソクラテスは間違いなくそういうタイプの人物です。

後世に遺した思想が人々の心を潤し、新しい文化伝統となったことを考えれば、日本でキリスト・孔子・仏陀と並んで「四大聖人」とされていることもうなづけます。
 

さて、こうしたソクラテスの生き様が弟子たちや周囲の人たちに大きな感動と衝撃を与えたことは想像に難くありません。

まだ青年だったプラトンも同様です。
プラトンは師を主人公とする対話篇を書くことで師の汚名をそそぎ、師の思想を広めることに生涯を捧げることになります。

もちろんあくまでプラトンの著作なので、プラトン思想としての独自色がかなり濃いことは事実でしょう。

しかし今回紹介したような「永遠の魂を前提とし、その魂を高めるための哲学」という基本ラインはしっかりと継承されています。そしてそれは、そのまま西洋思想の大きな柱となっていったのです。
 
自身の哲学をそのまま体現して死んだソクラテスだからこそ、彼の哲学は、読む人の人生観そのものに問いかけてくるような力があります。


次の「プラトン③ イデア論を徹底解説!」では、プラトン思想のキモであるイデア論について分かりやすく解説します。


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