プラトン③ イデア論を徹底解説
前回記事「プラトン② ソクラテス丸分かり」では、プラトンの師ソクラテスの教えについてご紹介しました。
それでは、プラトン自身はどんな哲学を説いたのでしょうか?
ポイントはいくつかありますが、今回は「イデア」について解説します。
プラトンと言えばイデア論、イデア論と言えばプラトン……というくらい、両者は切っても切れない関係です。
イデア論は後の西洋思想に絶大な影響を及ぼしており、現代でも底流では西洋知識人の必須教養になっていると言っていいでしょう。
イデア論についても「どこまでがソクラテスの思想で、どこからがプラトンの思想なのか」というのは判定しにくい問題ですが、一応、以下はプラトンの思想として読んで下さい。
まずイデアって何?
ギリシャ語の「イデア」は、英語の「アイデア」の元になった言葉で、日本語では「観念」「理念」「理想」などと訳されます。
そもそも日本語の「理想」という言葉は、明治になってから「イデア」の訳語として作られたものだと言います。
では、プラトンが語ったその「イデア」とはどういったものだったのか。
1つ、例を挙げて説明しましょう。
例えば数学者が紙の上で三角形を描いて、「三角形とは3つの直線で囲まれた図形のことで、内角の和は必ず180度になる……云々」と、その性質を論じるとします。
その描かれた三角形は多少は歪んでいますし、消しゴムで消されたり、紙ごと捨てられたりして、やがて消えて無くなるものですよね。
でも数学者が論じているのは、今まさに紙の上に見えている、不完全で儚い三角形ではなく、「三角形の本質」であるはずです。
つまり、「三角形」という名前で括られるすべてのものに共通し、それ以外のものには当てはまらない普遍的な性質が問題になっているのですね。
イデアとはまず、このように「その名を持つすべてのものに普遍的に共有される本質」のことだと理解すればいいでしょう。
紙の上に見えているのは、その本質を分け持つ、1つの実例にすぎません。
感覚的世界には多くの「三角の形をした事物」(このおにぎり、その三角定規、あの三角巾……)があります。
しかし数学の図形問題(幾何学)で扱われるのは、それら個々の具体的な三角形ではなく、三角形の本質です。
これが三角形のイデアと呼ばれるものに他なりません。
イデアとは、諸事物の内に体現されている、目に見えない本質です。
生まれる前の世界とイデア ~想起説~
現代人がこうした話を聞くと、次のような反応をするかもしれません。
三角定規などは現実の存在物だが、イデア(本質)とはその存在物の「性質」「構造」であって、それ自体は存在物ではないのではないか?
イデア(本質)とは、人間が多くの事物を観察した結果、頭の中でこしらえた「概念」のようなものだろう?
しかしプラトンはこのようには考えませんでした。
確かにイデア(本質)自体は目に見えません。見えるのはあくまで三角形をした事物です。
それでもイデアは理性によって把握でき、思考の対象となります。幾何学(図形の問題)はその良い例でしょう。
しかも、イデアは人間が頭の中で勝手に改変できるものではありません。
人間が勝手に三角形の内角の和を(ユークリッド幾何学の範囲で)180度より小さく変えることはできませんよね。
人間の思考にとって独立した対象となる以上、イデアは(単なる性質ではなく)それ自体が存在物でありどこかに存在するはずだと考えたのです。
どこかにあるって、どこにあるのか?
イデアが存在するのは、人間が生まれる前にいた世界(あの世、霊界)だとプラトンは説きます。
ソクラテスやプラトンにとって「人間の本質は肉体ではなく魂であり、その魂は肉体を変えながら転生輪廻している」というのが大前提でした。
そんな彼らにとって、感覚できるこの世にイデアがないなら、あの世にあるに違いないという発想になるのは自然ですね。
人間の魂は地上に生まれていない期間はあの世にいるわけで、そこでイデアを実際に見ていた。
だからこそ、この世では見たことがないはずのイデアを理解できるのだというわけです。
たとえ奴隷の子であっても、適切に説明してもらえば「三角形」の意味を理解できる。それは、人間がすでに生まれる前から三角形のイデアを知っていたからだということです。
人間が何かを「学ぶ」というのは、実はすでに知っていたが生まれると同時に忘れてしまっていたイデアを「想い出す」ことなのだ。
これを「想起説」と言います。
もちろん「○○年○○月にこんな事件が起こった」「▽▽年に■■という場所で誰々が死んだ」というようなこの世の事実についてはまた話が違います。
しかし数学のような永遠不変の真理についてはこの「想起説」が当てはまるというのです。
さて、このイデアですが、別に数学の対象にだけあるわけではありません。
人間にだってあります。私たちは「人間」というものについて一般的に語ることができます。人間の本質について論じられるわけですね。
ということは、先ほどの論法で行くなら、ソクラテス・プラトン・アリストテレスといった個々人がいるだけではなく、やはり「人間のイデア」も存在することになります。
人間、猫、石、椅子、机、牛、花、木……。このように物体として存在しているものにはそれぞれのイデアがあります。
そしてさらに重要なことですが、「善」「正義」「美」のような倫理的価値にも、それぞれイデアがあるのです。
1つひとつの「善い行為」「善いもの」はこの世界にたくさんあります。
しかし僕たちはそれらの個々の行為や物を超えて、「善とは何か?」など、善について理解し考察することができます。
その際、僕たちは善のイデア(本質)を問題にしているわけです。
そして、「この行動は善である」と考える場合、その行動が善のイデア(本質)を満たしていると判定しているわけですね。
そして善のイデアは、目に見える世界のどこを探しても見つかりません。それはイデアの世界(魂の世界)にあるのです。
このように、プラトンは「およそ名前(一般名詞)が付けられるものにはすべてイデアがある」と説いていることになります。
なお、「名前が付けられるものにすべてイデアがあるのか」という問題は、プラトン自身が議論している箇所もありますが、長くなるので割愛します。
イデアと事物の関係 ~分有~
したがってプラトンの世界観は次のような二分法になっていると言えます。
この世=肉体の世界=感覚で捉えられる現象界
vs.
あの世=魂の世界=感覚で捉えられないイデア界
そしてイデア論のポイントをもう1つ……。
プラトンによれば「この世にある感覚的な事物は、あの世にあるイデアを原型として、そのコピー(模造)として存在する」のです。
先ほども言った通り、現代人なら「まず感覚的な事物が先にあり、そこから人間が頭を使って一般的な概念を『抽出』する」と考えることが多いと思いますが、プラトンは逆の考え方をします。
感覚的な事物は移ろいやすくやがて滅びる。その三角定規もあの三角巾も消えて無くなる。しかし三角形のイデアは永遠にそのままである。
ということは、イデアの方が存在として堅固なものなのだ。
イデアがまず存在し、この世の事物はそのコピーとして存在するにすぎないのだ……。これがプラトンの考え方です。
これをプラトンは「分有」と呼んでいます。「この世の事物は、イデアから存在(有)を分けてもらうことによって存在している」ということですね。
イデア論への批判
以上がイデア論の概要です。
イデア論は後世の思想に絶大な影響を与えました。
しかし一方、このイデア論ほど多くの批判を浴びた思想も少ないでしょう。
プラトンの弟子アリストテレスがイデア論を批判していることはよく知られています。
しかし実は、プラトン本人もある時期から自分が若い頃に説いたイデア論を自己批判するようになっているのです。
その批判がどんなものか(専門的あるいは技術的な話に聞こえるかもしれませんが)少しだけ見てみましょう。
批判は何パターンかあるのですが、一部だけご紹介します。
次に示すのは、アリストテレスのイデア論批判ですが、プラトン自身による自己批判も基本的に同じ内容となっています。
それはこんな内容です。
プラトンはイデアについて「●●そのもの」という表現をしています。例えば三角形のイデアなら「三角形そのもの」、人間のイデアなら「人間そのもの」といった具合です。
つまり 人間のイデアは「人間そのもの」と言うくらいですから、それ自体も1人の人間であるという印象を受けるわけですね。
一方、そもそもイデアとは「その名前で呼ばれるすべてのものに共通の本質」でした。
そこで、人間のイデアもまた1人の人間だとすれば、この世に存在する全人間および人間のイデアに共通する「本質」として、さらに別の人間のイデア②が想定できることにならないでしょうか?
そして、この世の全人間および人間のイデアおよび人間のイデア②に共通する本質である人間のイデア③がある。そして……。
こんな風にイデアの連鎖が無限に続いてしまう。
あの世には無限のイデアがひしめいてるというのか? これは不条理であるというわけですね。
プラトンがこの批判について明確な再反論をしている箇所はないようです。
それではプラトンは答えに窮してスルーしていたのかと言えば、そうとは思えないところがあります。
プラトンはそもそもこの問題をそれほど重視していなかったのではないでしょうか。プラトンは後期になってもイデア論を棄てていません。
批判者たちは「人間そのもの」という表現に引っ張られていますが、それは人間の本質であることを強調した言い方にすぎません。
当然ながら、人間のイデアはこの世の人間とは違います。
この問題は、「人間のイデアもまた1人の人間だ」と考えるところから無限ループに陥る構造になっています。
つまり「イデア」と「イデアによって存在する事物」を同列に論じるから困難が生じるのであって、それらをしっかりと峻別するなら、とくに大きな問題はないと思われるのです。
もちろん「イデアなんてものが本当にあるのか?」というそもそも論は、哲学史上ずっと問われてきました。
中世のキリスト教神学者たちも、イデアがあるかないかを巡って議論を戦わせました。これを「普遍論争」などと言います。
イデアは本当に存在するという立場 ⇒ 実在論
イデアは人間がつけた名前(一般名詞)にすぎないという立場 ⇒ 唯名論
ともあれ、感覚の世界とイデアの世界を分けるプラトン的な世界観は形を変えながらも西洋人の思考法・発想法の基盤になってきましたし、今もかなり残っていると言えるでしょう。
次回「プラトンの哲学④ プラトンの国家論」では、彼の政治思想などを紹介します。