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死への存在|ハイデガー 【君のための哲学#2】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。


死への存在


マルティン・ハイデガー(1889 - 1976)は「人間は偶然的にこの世界に投げ込まれた目的のない存在である」と考えた。彼は「存在」について厳密に定義をする。

存在→何かが存在しているという事実
存在者→実際に存在している事物(生命体だけではなくモノを含む)
現存在→自らの存在を問う存在者(人間のこと)
世界-内-存在→存在者が他の様々な存在者と関わりながら存在している事実

私たちは、世界にただ存在している(させられている)だけの存在者である。そこに特定の目的や運命はない。そして、そうやって偶然的に世界に投げ込まれた存在者は、投げ込まれると同時に死へ向かって歩き出す。私たちの人生は、生まれた瞬間から死へ向かって進んでいるにすぎないものなのだ。この冷徹な現実を、ハイデガーは「死への存在」と呼称した。
とはいえ、存在者である私たちは、同時に存在の意義を問うことができる現存在でもある。私たちは決断によって、目的のない人生に自分なりの目的を付与することができる。自分の在り方を規定することができる。これは現存在たる人間にしかない特殊な能力である。


君のための「死への存在」

死は怖い。だからその事実から目を背けたくなる。私たちはそうやって死の事実を忘却し、何となく日常を生きている。そして死を意識しない人間は没個性化(周りに合わせた一般的な生き方)していく。毎日というくり返しの中に収納され、流れ作業の一員になってしまうのだ。
ハイデガーはこの状態に陥った現存在のことを「ダス・マン(Das Man)」と呼ぶ。
そして彼は、多くの現存在が「ダス・マン」と化し、社会が没個性化する時代のことを「存在忘却の時代」と表現する。「存在忘却の時代」では、没個性化した人々が社会の材料として利用されることになる。その状況では、先の定義に出てきたように「何かが存在しているという事実」すらも忘却されてしまう。世界-内-存在という、存在のありありとした動的な感動を忘れてしまう。
それでも人々は何となく毎日を過ごす。なぜならば、いつか死ぬ・どうせ死ぬことから目を背けているからだ。
しかし、人間にはもともと「自分の在り方を規定する」という能力がある。自分の在り方を規定して(没個性からの脱却)自分の生きたいように生きる思考能力がある。その思考能力を発揮し行為に移すためには「死への存在」と向き合わなければならない。自分は絶対に死ぬということから目を逸らさずに、それを前提に自分の生について考える。そうしたときに、私たちは没個性化した生き方を許容できるだろうか。(それでもそれを許容できるならば、それは立派な個性である)
人間は等しく「死への存在」である。だからこそ、その事実を忘れてはいけない。どうせ死ぬことが確定しているのだから、その事実を有効に使った方が良い。私たちには、人の顔色を窺っておどおど生きる暇も、やりたくないことを無理やりやらされる暇も、ただ何となく毎日を消費する暇もないのだ。


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