メインチャンネル『寛容論』の書き出し文
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ヴォルテールは18世紀フランスの哲学者・歴史家です。当時のフランスでは「啓蒙思想」が芽吹こうとしていました。啓蒙思想とは、理性による思考の普遍性を重視する思想です。簡単にいえば「理性で世界を説明することができる」という主張ですね。非常に科学的なベクトルを持つため、まれに「アンチ神学」と表現されることもありますが、厳密にはそれは誤りです。当時、啓蒙思想的な文脈で聖書を再解釈するという動きもあり、これは、聖書を歴史的資料として再肯定する営みと解釈できます *1
*1 例えばイギリスのバーネットは、ノアの方舟における大洪水を(その出来事をまずは肯定した上で)自然科学的な法則を前提に研究していました。つまり、神的な超越した力によってそれが起こされたのではなく、自然現象としての大洪水が起こり、それを物語として受け継いだのがノアの方舟だというわけですね。これはまさに「聖書を歴史資料として位置付ける」最たる例だと思います。
理性を重要視する啓蒙思想は、その後のフランス革命などに寄与します。ヴォルテールは、ジョン・ロックやモンテスキューと並び、啓蒙思想の代表者として評されています。
1694年。ヴォルテール(本名フランソワ=マリー・アルエ)はパリにある非常に裕福な名家に生まれます。父のフランソワ・アルエは文学界とのコネクションを持っていて、ヴォルテールは小さい頃から数多くの文学者と交流したようです。
幼少の頃から大変に能力が高く、将来を嘱望されていましたが、彼は父が思い描くイエズス会士や司法官への道ではなく、詩人になることを強く望みます。20歳になるまでに「社会勉強」として半ば強制的に法律事務所などで働かされますが、毎回のようにトラブルを起こして、長続きしませんでした。
そんな折、フランス最古の国立美術団体であるアカデミー・フランセーズから詩の賞を授与されたことで、ヴォルテールの名前は徐々に知られていくようになります。しかしその後、フランスの政治や政府を痛烈に中傷する詩を書いたことでバスティーユ牢獄に1年もの間投獄されることになります。
バスティーユ牢獄といえば、マルキ・ド・サドも収容されていたフランス旧体制(アンシャン・レジーム)を象徴するような刑務所です。当時、ほとんど国王の独断で、反対意見を持つ者を強制的に投獄することができました。まさに不寛容の極みですね。
出所後、彼は悲劇『オイディプス』を発表し、これが大ヒット。有名作家の仲間入りを果たしました。その後、貴族とのトラブルなどで再度バスティーユ牢獄に投獄され、出所した後に彼はイギリスに渡ります。彼にとって、この渡英が大きな転機となりました。
イギリスに渡ったヴォルテールは、ロックの啓蒙思想やニュートンの物理学的哲学に感銘を受けます。イギリスの進んだ思想はフランスの前時代的な封建的思想を浮き彫りにしました。彼はそのギャップに大きなショックを受け、フランスに戻った後『哲学書簡』という書籍を発表します。
しかし、この『哲学書簡』がフランスで問題になりました。『哲学書簡』においての、フランスよりもイギリスの方が優れているという論調は、フランス政府(あるいは愛国者)にとっては見過ごせない反国家的な主張だったのです。『哲学書簡』は焚書の対象となり、ヴォルテールにも逮捕状が出されます。彼は愛人であったシャトレ夫人を頼り、彼女の館に匿ってもらうことになりました。ちなみに、このシャトレ夫人という女性はニュートン物理学に精通しており「女性科学者のさきがけ」と評されています。彼に対する告発は、その後すぐに無効となりますが、1734年から始まったシャトレ夫人との同棲生活は、彼女が亡くなる1749年まで続きます。
シャトレ夫人亡き後、彼はプロイセンやジュネーブなどを渡り歩きました。この頃に発表されたのが『カンディード』です。ジュネーブに腰を落ち着けていたヴォルテールですが、著作や演劇の上映問題で、ここでも政府との関係が悪化したため、スイス国境に接するフランスの街、フェルネに移住します。
パリのヒーローであった彼が、その後パリに住むことはありませんでした。
晩年、戯曲「イレーヌ」のパリ上演の知らせを受け、28年ぶりにパリの地を踏み、市民から熱烈な歓迎を受けますが、滞在中に体調が悪化し、そのまま亡くなってしまいました。
ヴォルテールの人生は不寛容との戦いでした。
彼が『寛容論』で取り上げた「カラス事件」に執着したのは、人生における「不寛容」という背景が大きく影響していたのかもしれません。
1762年。
ヴォルテール68歳の春。フランスのトゥールーズで凄惨な事件が起きました。
トゥールーズという街は、頑固なカトリックの街とされています。過去には何度もカトリックとプロテスタントの争いがあり、その度に多くの犠牲者が出ていました。特に、当時から200年前に行われたユグノー(プロテスタントの蔑称)大虐殺。カトリック側から見て異端者とされるユグノーが4000人も殺される事件がありました。トゥールーズではこの日を「記念」して、毎年お祝いをする行事があった。それぐらい、カトリック信徒が力を持っている街だったのです。
そんな街に住むジャン・カラスという老年の男性。彼はプロテスタントでしたが、カトリックに対しても寛容だったとされています。そもそも、彼の三男はカトリックに改宗しており、カラスは、改宗後も彼に対して生活の支援を行っています。さらに、カラス家に30年支えていた女中もカトリックでした。街で40年近く商人を行っており、周りからの評判も非常に良かったようです。
事件の発端は長男のマルク・アントワーヌです。彼は根暗な文学青年で、親の商売を継げるような性格をしていなかったと言います。とはいえこの時代、プロテスタントは法務系の仕事に就くことを禁じられており、彼は就職のためにカトリックへの改宗を予定していました。カラスはこれを祝福していたと言います。しかし、マルクはそういった前途の暗さから常に自殺を考えていました。
ある日、博打でお金を失ったマルクは、自殺の決行を決意します。その日、カラス家の夕食にはカラスと妻、長男のマルクと次男のピエール、それに友人のラヴェスというプロテスタントの青年が招かれていました。夕食後、二階の部屋で談笑をしていると、そこにマルクの姿が見当たりません。不思議に思った次男のピエールと友人のラヴェスが一階の様子を見に行くと、そこには首を吊って亡くなっているマルクの姿がありました。争った形跡は一切なく、一目自殺だとわかるような死に方だったようです。
これだけでもカラスにとって大変な不幸ではありますが、ここに追い打ちをかけるような出来事が重なります。
カラス家の騒ぎを聞きつけたトゥールーズの市民が集まってきました。そのとき市民の誰かが「ジャン・カラスが息子を殺した」と叫びます。この疑念は、普段から敵対していたカトリック信徒たちの中であっという間に広がり「カトリックに改宗予定であったマルクを許せなかったカラス家が計画的に彼を殺したのだ」というストーリーが構築されました。この騒ぎを見た町役人のダヴィットという男性(カトリック)は、通常考えられないような早さで訴訟手続きをはじめます。気づいたときには、カラス一家とその女中、ひいては友人のラヴェスまでもが逮捕され、投獄されました。
通常、カルヴァン派のプロテスタントの場合、禁忌とされる自殺をした人間を、馬で引きずり辱めを与えるというしきたりがあります。しかし、トゥールーズの市民たちは、マルクは殺害されたと信じ“カトリックのやり方で”彼を盛大に弔い、荘厳に埋葬しました。カラス家にとって、これは侮辱以外のなにものでもありません。さらに運が悪いことに、その時期は例の「祭り」すなわちユグノー大虐殺のお祝いが行われる直前でした。
裁判はあっという間に終わりました。ほとんどカトリック教徒で占められた判事たちによってカラスは死刑宣告を受けます。
そのすぐ後、「車裂き」という残忍な処刑方法によって彼は腕と足と腰を砕かれ、車輪に固定され、絶命後燃やされ、遺灰を無造作に撒き散らされたのです。
カトリックの判事たちは、彼の有罪を疑っていませんでした。だから、刑の確定後にカラスが自白するものと思っていた。しかし、彼は刑の執行がなされても罪を認めませんでした。これを受けて、判事たちは狼狽します。もしかしたら彼は殺人を犯していなかったのではないか。このような流れの中、関係者の釈放が提案されましたが、釈放をするということはカラスの無罪を認めるようなものです。彼らはその矛盾を受け入れることができなかった。
そこで判事たちは、次男のピエールを町から追放することにし、彼を強制的にカトリックに改宗させることによって「赦し」として町に連れ戻す計画を実行します。これによってピエールは修道院に監禁されることになります。同時にカラスの娘たちも修道院に閉じ込められました。こうして、一人残されたカラスの妻は全てを失ってしまったのです。
事件のあらましを知ったヴォルテールはカラスの名誉回復に奔走します。彼の貢献もあって、事件から2年後の1765年、宮中請願審査によってカラスの名誉が回復され、改めて無罪が宣告されました。
ヴォルテールはカラス事件を「フランスの後進性を表すもの」と考え、宗教による狂信や差別や暴力を非難し、寛容の美徳を勧める書を書きました。これが『寛容論』です。
『寛容論』では、カトリックと他宗教や過去の宗教が比較され、如何にカトリックが不寛容の歴史を作ってきたかが説かれます。一応補足をしておくと、ヴォルテールはカトリック信者です。つまりこれは、外部からのカトリックに対する攻撃ではなく、内部から湧き出た真摯な告発なのです。
ヴォルテールが生きた1694年から1778年はプロテスタントにとっては非常に難しい時代でした。1562年から40年に渡って続いたユグノー戦争は、血で血を洗うカトリックとプロテスタントの凄惨な争いでした。1598年、アンリ4世により「ナントの勅令」が発せられ、プロテスタントの信仰の自由が認められます。しかし、それから約80年後のルイ14世の時代。国王帰属の竜騎兵による改宗の強制などが行われ、1685年に発せられたフォンテーヌブローの勅令により、事実上、ナントの勅令は廃止されることになります。
これによって、プロテスタントの市民権は剥奪されます。しかし、商重工業に長けていたプロテスタントを完全に迫害することはできず、彼らは改宗を自称しながら、プロテスタント信仰を継続したのです。
とはいえ、彼らに職業選択の自由はありませんでした。司法の領域はカトリック信徒が独占していましたから、プロテスタントは法的な弾圧を避けられない状況に置かれていた。カラス事件も、こうした背景によって引き起こされたわけです。
このような状況に対してヴォルテールが主張したのが「寛容(Tolérance)」という概念でした。
理性によって狂信を抑制し、寛容の精神を実現できなければ、先進的な宗教、ひいては国家の実現は不可能である。
Toléranceは、ラテン語の「tolerantia」が元になった言葉です。「tolerantia」は寛容の他に「我慢する」「耐える」などの意味を持ちます。ラテン語における「tolerantia」には消極的な忍耐という印象がありますが、フランス語の「Tolérance」には、積極的な多様性への理解という意味が追加されているように思えます。
ヴォルテールは、他の宗教や昔の宗教が内部に持っていた「寛容性」をいくつも提示することで、宗教と寛容は共存できることを示そうとしました。
例えば、彼は日本人のことを「全人類でもっとも寛容な国民」だと評します。16世紀ごろの日本には、十以上の宗教がお互いを寛容しつつ定着していました。ここに新しく外来したのがカトリックです。イエズス会士たちに寛容の精神はありませんでした。彼らはカトリック以外の宗教を認めようとせず、その結果、ユグノー戦争に劣らぬほどの恐ろしい内乱、島原の乱が引き起こされてしまいました *2
*2 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第4章
また、ヴォルテールの時代のトルコにおいては、皇帝が宗教の異なる20以上の民族を緩やかに統治していました。大都市コンスタンティンノープルでは、20万人のギリシア人が暮らし、そこではイスラム教の指導者が、ギリシア正教会の総主教を任命し皇帝に紹介することもありました。トルコにはキリスト教やイスラム教をはじめ、ヒンズー教、ゾロアスター教、ユダヤ教、ヤコブ教など様々な宗教が混在していましたが、トルコの年代記にはこれらの宗教による反乱の記録は一切ありません *3
*3 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第4章
ヴォルテールは、過去にそれが実現されていたように、理性によって狂信の暴走を食い止められると信じていました。その信念はたった一つのシンプルな文章で表されます。
「自分がしてほしくないことは、他者にもしてはいけない」*4
*4 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第6章
ー人間の権利は、いかなるばあいにおいても自然の法に基づかなければならない。そして、自然の法と人間の権利、そのどちらにも共通する大原則、地上のどこにおいても普遍的な原則がある。それは「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」ということ。
キリスト教には「黄金律」という教えがあります。これは『マタイによる福音書』に複数回現れる言葉「何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ」に対してつけられた名称です。自分がされて嬉しいことを、他の人にもするようにしよう。黄金律はキリスト教倫理の根本原理として尊重されています。
これに対してヴォルテールが提示する「自分がしてほしくないことは、他者にもしてはいけない」は「白銀律」と呼ばれます。
両者は同じようなことを主張しているように見えますが、ヴォルテールがあえて「白銀律」を提示したのにはわけがあります。
「黄金律」での倫理の運用においては「嬉しい」という主観が問題になります。カラス事件を振り返ってみると、トゥールーズの人々は善意、あるいは正義によってカラス家を罰したのかもしれません。「嬉しい」という主観は人それぞれですから「黄金律」はともすれば「嬉しい」の押し付けになる危険性をはらんでいます。
例えば、極端なマゾヒストが「人に傷つけられるのは嬉しい」と判断し、その「嬉しさ」を他者に強要するのは、普通に考えて良くないですよね。もちろん、マゾヒストにとっては「傷つけられることは嫌だ」という観念がないため「白銀律」を用いても、他者への攻撃を避けられるわけではありません。
しかし、根本的な倫理法則として「〜せよ」という積極的な指針は、それが他者にとってデメリットだった場合、被害を拡大再生産します。
一方で「〜するな」という倫理法則は、それが消極的な指針であるが故に、仮に判断に間違いがあったとしても、その被害の広がりには一定の歯止めがききます。
自身の人生における不寛容やカラス事件を経験したヴォルテールが
あえて「白銀律」を提示したことには、大きな意味があるように思います。
ヴォルテールは当時、カラス事件に見られる狂信の不寛容が、これだけ進んだ時代にまだ存在していることを嘆いていました *5
*5 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第1章
ー何と、これは現代のできごと。哲学が多大の進歩をとげた時代のできごとなのだ。国中の、百を数えるアカデミーが民衆の啓発に努め、習俗を穏和なものにしようとしているときに起きたことなのである。それはあたかも狂信が、最近うちつづく理性の成功に憤り、理性に踏みつけられてますます激しくのたうちまわっているように見える。
翻って現代。彼の時代よりも圧倒的に豊かになった社会において、不寛容は緩和されているでしょうか。宗教問題はなおのこと、今でも私たちは強烈な不寛容を目にすることが少なくありません。
ヴォルテールが提示した寛容の精神、あるいは不寛容の悲しい具体例は今も、社会に対して厳しい批判を投げかけています。
最後に彼の問いかけを引用して終わります。
こうしていま、人間の本性の、温和で慈悲深い声が聞こえてくる一方で、本性の敵である狂信が猛々しい叫び声をあげている。そして、平和がひとびとのまえにあらわれてくる一方で、不寛容は自分の武器をひたすら鍛えている。おお、あなたがた、諸国民の裁定者であるあなたがたは、ヨーロッパに平和をもたらしたかたがたであるが、今こそ心を決めていただきたい。
和合を求めるか、殺戮を求めるのか *6
*6 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第24章
□注釈と引用
*1 例えばイギリスのバーネットは、ノアの方舟における大洪水を(その出来事をまずは肯定した上で)自然科学的な法則を前提に研究していました。つまり、神的な超越した力によってそれが起こされたのではなく、自然現象としての大洪水が起こり、それを物語として受け継いだのがノアの方舟だというわけですね。これはまさに「聖書を歴史資料として位置付ける」最たる例だと思います。
*2 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第4章
*3 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第4章
*4 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第6章
ー人間の権利は、いかなるばあいにおいても自然の法に基づかなければならない。そして、自然の法と人間の権利、そのどちらにも共通する大原則、地上のどこにおいても普遍的な原則がある。それは「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」ということ。
*5 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第1章
ー何と、これは現代のできごと。哲学が多大の進歩をとげた時代のできごとなのだ。国中の、百を数えるアカデミーが民衆の啓発に努め、習俗を穏和なものにしようとしているときに起きたことなのである。それはあたかも狂信が、最近うちつづく理性の成功に憤り、理性に踏みつけられてますます激しくのたうちまわっているように見える。
*6 寛容論 ヴォルテール 斉藤 悦則 (翻訳). 第24章
□参考文献
哲学書簡 光文社古典新訳文庫 ヴォルテール 斉藤 悦則(訳)