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嫌われる勇気|アドラー【君のための哲学#33】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



重要なのは今


『嫌われる勇気』の影響で、日本でも非常に人気のあるアルフレッド・アドラー(1870-1937)は”今””他者”を重視した心理学者である。
彼はもともとフロイトの共同研究者であった。フロイトもアドラーのことを大変気に入っていたのだが、次第にお互いの主張に溝が生まれ、最終的に両者は決別することになる。
フロイトは精神疾患の原因を”過去”に見た。人間には本人に認識できない【無意識】の領域があり、その領域に過去の経験や抑圧された記憶が格納されている。それらの経験や記憶が作用することで”今”の病理が現れる。そして、そうした経験や記憶の根底にはリビドー(性欲)が隠されていると考えた。
一方でアドラーは原因を”今”に見た。人間の行動には全て目的がある(目的論)とし、目的に関連する諸要素[意識・無意識・肉体・精神]は分割不可能なものであり、矛盾対立することなく連動している(全体論)と考えた。つまり人間は「現在の目標や価値観を変えることで」いくらでも変わる可能性を持っているとするのだ。彼の有名な言葉に「人は誰しもが自分の人生の主人公である」というものがある。私たちは自分の行動を全て自分で決定する(自己決定性)ことができる。そして私たちはその行動や結果を自分の主観的な意味づけで解釈(認知論)する。
だから、考えるべきは”過去”ではなく”今”である。


君のための『嫌われる勇気』


アドラー心理学は極めてポジティブなものである。例えば【劣等感】。彼は劣等感をネガティブに捉えない。「他人と比べて自分が劣っていると感じること」は、理想の自分になるための材料であるという。
前述のとおり、人間は自分の行動を自由に決定することができる。しかし一方で、他者の行動を決定することはできない。悲しいぐらいできないのだ。だから、その二つを明確に分類して扱わないといけない(課題の分離)
自分には理想の自分になるための課題がある。当然他者にも同等の課題があるわけだが、それについて介入することは原理的に不可能だ。だから、自分の課題だけに集中しなければならない。自分がコントロールできないものに執着しないようにしようという主張は、ストア派のそれと似ているところがある。もしかしたら、自分の課題だけに集中している人は、周りから白い目で見られるかもしれない。しかしそれでも自身の課題に集中しよう。その課題を乗り越えるための活力が『嫌われる勇気』なのである。
アドラーの主張は、ともすれば自己中心的な行動指針になり得るものである。しかし彼は「全ての行動には相手役の存在がある」(対人関係論)と言った。
原理的に他者の課題をコントロールすることはできないものの、私たちの行動には必ず他者という存在が影響している。だから「自分の課題に集中すること」は、同時に他者の存在を包含しているのだ。とはいえ、他者の課題や行為に対して執着するのはダメだという。じゃあどうしたら良いのか。
アドラーは、それを【共同体感覚】という概念で説明する。共同体感覚とは「自分は大きな共同体の一部である」という主観的な確信のことだ。自分がコントロールできるのは自分のことだけであるが、それと同時に”自分”という存在自体が大きな共同体の一部分である。このように捉え直すことで「自分への集中」と「他者への関心」が矛盾せずに共存することが可能になる。
アドラーは、共同体感覚を実現するために以下の3つの要素を重要視した。

・他者を無条件に信頼すること
→他者をコントロールしようとせずに、そのまま信頼する

・自分をあるがままに受け入れること
→共同体を受け入れるということは、共同体の中の自分を受け入れると同義

・他者の役に立つ行いをすること
→共同体への貢献は、自分への貢献と同義

自分にとっての課題は、自分だけの課題ではない。自分は共同体の一部なのだから、共同体のための課題が自分の課題になるのだ。
平たく言えば、アドラーは「他者のために行動することが、自分の幸福につながっている」と考えた。そして、その行動を支えているのは”今”の自分である。
共同体全体のための課題に集中した自分は、もしかしたらもっともっと小さい共同体において忌避されるかもしれない。しかし、それでも与えられた課題を解決するために邁進する姿勢。それが本当の『嫌われる勇気』なのかもしれない。


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