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複数の時間|ベルクソン【君のための哲学#30】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



物質と記憶


アンリ=ルイ・ベルクソン(1859年-1941年)は『物質と記憶』の中で、それまで一般的だった時間に対する感覚や、二元論の常識を批判した。
二元論では"身体"と"精神"を別のものとして認識する。ベルクソンはその認識自体が間違っていると言う。私たちは何かを認識する際に必ず"知覚"を用いる。普通"物質"と"知覚"は別のものだと捉えられるが、彼は「物質と知覚は別物ではなく程度の差である」と考えた。
例えば、近くのものを認識する際にはその感覚は身体の内部に描かれる。一方で遠くのものを認識する際、その知覚は対象の中の方に描かれる。非常に難しい表現ではあるが、なんとなくわかる気がするのも確かである。"知覚"やそれに付随した"精神"は、何も身体の中に収まっているものではない。ベルクソンはこれを「知覚は事物の中に置かれる」と表現した。だから"身体を含む物質"と"知覚を含む精神"に根本的は違いはない。
また"記憶"は"知覚"の束である。そして"運動"は知覚の集積たる記憶(あるいは経験)から生み出される出力である。つまり"運動"とは、知覚の連続から生まれる動的な営みであり、この"運動"の作用と反作用により物と精神は交わり合っているのだ。
しかし人間はこの動的なモデルをそのままに受け止めることができない。だから"運動"をあたかも空間的で静的(座標的)なモデルとして捉え、計算し、言語化しやすいように整備する。
ベルクソンは「運動は決して数学的なものではないし、線分(軌跡)として表現できるものではない」と主張した。時間的な連続性を持つ不可分な"運動"を、分割可能な空間的なものと誤解してしまったのが物理学であり二元論だとしたわけだ。



君のための「複数の時間」



ベルクソンは「絶対的な時間など存在しない」と考えた。絶対的な時間とは、まさに空間的な認識によって時間を捉えた概念である。
世界には大小様々なスケールの時間が存在している。個人の中でもそれは一緒だ。私たちの中には無数で複数の時間が流れており、それらが混ざり合って様々な観念を構築している。(相互浸透)
だからベルクソンは"過去・現在・未来"という、とても空間的な時間の捉え方を否定する。彼は時間の質を考える際に"相"という概念を導入した。

完了相→静的で、すでに起きることが決まっている状態
未完了相→動的で、次に何が起こるか分からない状態

私たちの前には「未来の出来事だけど大体そうなることが確定していること」もあれば「過去の出来事だけどその後どうなるか把握していないこと」も存在している。彼の"相"を導入すると、一般的な"過去・現在・未来"という分類に疑問を設定することが可能なのだ。
とはいえ彼の言っていることは難解で、しかも人間が自然に理解できない領域のことを語っているのだから、普通真っ向から受け入れることはできない。なのでここではかなり勇気を出して思いっきり意訳をしてみようと思う。

物理学に代表される"私たちの"時間に対する捉え方は非常に空間的である。空間的であるがゆえに、それを分割し、座標軸上に置き、計算する。それはまるで閉じた系の中でお行儀よく整列している時間である。こうした前提となる時間観があるからこそ、コスパやタイパが重要視される。そもそもコスパやタイパには「それを計算できること」という大前提がある。計算できるから最適解を求める。計算できるからその果てに正解があると考える。

ベルクソンはこれとは真逆の時間観を提示する。時間は空間(として私たちが認識するそれっぽいもの)のように捉えられない。時間はあくまでも時間的なものだ。時間的であるがゆえに、それは分割できず、座標軸上に置くこともできず、計算することもできない。無数にある時間スケールは私の中で混ざり合う。それはまるで開いた系で自由に振る舞うカオスな時間である。こうした前提の時間観においてはコスパやタイパが重要視されない。なぜならばそもそもその計算は不可能(あるいは幻想)だからだ。

ベルクソンは「無駄なものに開かれた時間」が人間の特殊性であると考えた。彼の主張は、私たちが染まってしまった空間的時間観を見直す一つのヒントになるのかもしれない。



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