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無記|釈迦【君のための哲学#26】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



悟り


キリスト・ソクラテス・釈迦・孔子
世界四大聖人の一人である釈迦(ゴータマ・シッダッタ)は、言わずと知れた仏教の開祖である。現在、さまざまな仏教の形態・教義があるが、元を辿れば全ての根源にこの人の存在がある。
釈迦は王の子供として生まれた将来を約束された人間である。しかし、彼は30歳手前でその立場を捨てた。そのきっかけは四門出遊として語り継がれている。彼は王城にある東西南北の門から外に出る際に、それぞれ「老人」「病人」「死人」を見た。そこから釈迦は「人は老いや病気や死への恐怖から逃れられない」ことに気づき、人生と苦痛は切っても切り離せないものだと確信した。最後の門では「修行者」に出会った。彼はそこで出家することを決めたという。
人は自分の人生に対して執着しゅうじゃくを持っている。しかし、人生は自分の思いどおりにならない。執着を起点に生きている以上、だから人生は必ず苦痛である。(一切皆苦)
この苦痛から逃れるためには、全ての原因である執着を捨て去らなければならない。(解脱)
釈迦はその境地に至るためにさまざまな努力をした。ときに瞑想に耽り、また苦行に励み、一時期は骨と皮だけの状態になったという。そんな折、スジャータという女性の言葉からヒントを得て、彼は菩提樹の下で悟った。
その後、釈迦は多くの弟子たちに説法を行い、彼が入滅した後、弟子たちがそれぞれ仏教の教義をまとめていった。これがいわゆる初期仏教である。
初期仏教は争いや分派を繰り返し、現在のあらゆる仏教に派生していった。



君のための「無記」


ここではことさら仏教の教義について語るつもりはない。
着目すべきは釈迦の「真理」に対する姿勢である。
彼は、形而上学的な問いに対して最後まで沈黙を守ったと言う。この姿勢を「無記」と呼ぶ。
例えば「死後の世界はあるか?」などの問い。この問いには答えがない。死は意識の断絶であるはずだし、仮にそうでないとしても、死者と交信することは今のところ難しいのだから、死後の世界を観察することは不可能である。私たちは死後の世界に対して「あるかもしれないし、ないかもしれない」程度の答えしか用意できないのだ。
先述のとおり、釈迦は執着を苦の根源だと見做した。私たちには、どうにもならないものをどうにかしたいと考える傾向があり、それが苦痛を生み出す原因になっている。ただでさえ世界は思いどおりにならないのだ。にもかかわらず、理性ですら認識できない現実以上の形而上学的な問いに執着するのは愚行以外のなにものでもない。と彼は言いたかったのかもしれない。
仏教には八正道という概念がある。これは簡単にいえば、悟りに至るためのマニュアルのようなものだ。八正道の中には八つの行動指針があり、その中でもとりわけ重要なのが正見である。正見とは、真理を正しく知ることだ。
とはいえ正見における真理とは、外界の基本法則一般を指すものではない。(と解釈している)
真理は自分の中にある。いや、自分の中にしかない。
外界のコントロールを求めること(執着)が苦を生み出すように、外の世界のあれこれを知ろうとすることも、最終的には苦を生み出す原因になる。

釈迦における無記は「わからないことに対しては沈黙を貫くべき」という受動的な姿勢ではなく、「自分がコントロールできる事柄に集中しよう」という能動的な姿勢を表しているのではないだろうか。
私たちそれぞれが悟りに至ることはきっと難しいが、釈迦の姿勢に倣って、自分ができることに集中することは可能だと思う。そしてそれは、苦痛からの一部的な脱却をもたらすのかもしれない。

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