自我|フロイト【君のための哲学#31】
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Mofuwa
☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。
無意識
19世紀西洋の人々は、自分たちの合理性を疑っていなかった。自身の行動は理性によって全て制御できると考えていた彼らに対して、ジークムント・フロイト(1856-1939)における【無意識】の発見が与えた衝撃は計り知れない。今でこそ様々な批判にさらされるフロイトの思想だが(いや、生前からかなり批判されていたらしい)彼の仕事が心理学の基礎を作り、学問の垣根を越えて20世紀の思想全体に大きな影響を与えたことは疑いようもない。
フロイトは一般開業医としてヒステリー(現代におけるヒステリー[解離性障害]よりももう少し広い範囲のものを指す)の治療に携わっていた。彼は心理的な病に対して科学的な方法を用いて向き合い、そこで無意識を発見する。
人には「意識的に認識できない思考や欲求」があり、人間の行動の多くはこの無意識に支配されている。また、フロイトは、人間には防衛機制という重要な機能が備わっていると考えた。防衛機制とは、受け入れたくない状況や危険な状況を目の前にしたとき、不安を軽減しようとする心の働きである。
代表的なものは抑圧(欲求不満や不安を無意識に抑え込んで忘れてしまおうとすること)であろう。
このような機能により、人は無意識に記憶を蓄積していく。こうした「認知することができない」記憶の蓄積がマイナスの方向に表出したものがヒステリーではないか。フロイトはそう考えた。これは今日でいうところのトラウマやPTSDに通ずる考え方である。
君のための「自我」
フロイトはまず【局所論】という理論を提唱した。
人間の意識は
という三層で構成されている。
意識(と前意識の一部)は、まさに氷山の一角である。普段私たちが自覚している”私”というものは私全部のたった一部分でしかない。
彼は次に【構造論】という理論を提示する。
人間の心には
という三つの性質があり、これらが混ざり合うことで人の行為が構成される。二つのモデルを一つのイメージにすると以下のように表現できる。
例えばあなたが極度の空腹に苦しんでいるとする。あなたの目の前には他人のために用意されたお弁当がある。
このときあなたの無意識にあるエスは、シンプルにそのお弁当を食べようとする。欲求を満たすためだから当然である。しかしその行為は自我のチェックを受ける。自我は超自我における「他人のものを勝手に盗んではいけない」という道徳規範を参照し、エスの欲望を律してお弁当を食べることを我慢する判断をするかもしれないし、あまりに空腹だった場合はエスの欲望を優先してお弁当を食べてしまうかもしれない。
エスと超自我は天使と悪魔である。自我は常に、天使の「思う通りに行動しなさい」という誘惑と、超自我の「道徳に従いなさい」という戒律の板挟みになっている。さながら中間管理職である。そう考えると、私たちが認識する”自分”の大部分は自我なのだから、それはもう生きるのにエネルギーが必要なわけだ。
以上のようなフロイトの理論、あるいは無意識の概念は、様々な気づきを包含している。私たちが”私”と思っている存在は、私のほんの一部分でしかない。私には必ずエス的な部分が存在している。
ときに私たちは自分の「ダメさ」に辟易することがあるが、そんなときにフロイトの思想は役に立つ。私が”私”と認識しているのは自我あるいは超自我である。私の「ダメさ」の多くはエスに起因している。つまり"私"はエスという「私であって”私”ではないもの」のために事後処理をしている偉い人である。
完全に方便的な捉え方であるが、こう考えると自己嫌悪から一気に抜け出せそうではないだろうか。
私は"私"が思うほど小さくまとまっていない。私は"私"が認識できない複数の私'で構成されており、"私"はその調整役をつとめているだけである。
甚だ責任転嫁的な考え方であるが、それぐらい無責任な方が楽に生きられるのかもしれない。