私を中二病に引き込んだ作品とキャラクターの数々
こんにちは。哲学チャンネルです。
私は多分中二病です。
コトバンクでは中二病は以下のように定義されています。
外面上大人になった今でも、心のどこかで自分が主人公だと思っている節があり、世界を斜めから眺めており、暇があれば屁理屈で色々なことを正当化・別解釈化することを生業にしています。
私自身は、そんな私がわりと好きではあるものの、同時に変わっているという自覚もあります。しかしながらそれでいて同族も多いと思うんですよね。
特にあなた。
この記事を読んでくださっている(あえてこう表現しますが)物好きな方って、おそらくどこかに中二病的な素養を持っているのだと勝手に解釈しております。
それで、最近そのルーツが気になったんですよね。
私の中二心を形作る諸要素は、私の人生においての何からやってきているのか?
それを洗い出してみたところ、その紹介だけで記事が一本書けそうでしたので、こうしてキーボードを手に取っています。
願わくば、私の記事の読者様に多少なりともの中二病のタネが埋まっていて、これから紹介するいくつかの作品やキャラクターに共感が生まれますように。
それでは本編にまいります。
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1stインパクト 『326』
今から遡ること23年前。
中学生になりたての私に強烈な価値観を植え付けた存在が『326』さんです。
1999年、19(ジューク)というフォークデュオが「あの紙ヒコーキ くもり空わって」というヒット作と共に世に認知されます。
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夢を描いたテストの裏
紙ヒコーキ作って 明日に投げるよ
いつかこのくもり空わって
虹を架けるはずだよ?
みんなをつれてくよ
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この衝撃に文字通り『やられた』私は、彼らの作品にしゃぶりつきました。
特にファーストアルバムは垂涎もので、その中でも「テーマソング」という楽曲での表現
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善(しろ)と黒の決められた
横断歩道(繰り返し)に生きるより
君は自分で探してほしい
楽じゃないけど楽しい道を
「誰かの為に…」なんて云う
善い理由(いいわけ)なんて捨ててしまえば
ちっぽけな弱い自分が
そこにいるだろう
「そして、きっと…」
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という部分ですとか「あの青をこえて」の歌詞
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生きてゆく事は掛けて行く事
僕「らしく」意味を追い駆けて
どんなにもチャンスがめぐってきても
僕が「ゼロ」なら意味がない
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などに強烈に価値観を揺さぶられました。
それまでの私は何かの楽曲を聴くときに、歌詞に注目して楽しむという観念を持っておらず、曲を音として聴いていました。(それも一つの音楽の楽しみ方である)
そんな私でしたから、19と出会ったことによって大袈裟に言えば『言葉の力』みたいなものを実感させられてしまったのです。
そして、そこで語られる言葉は、ちょうど中学生の自分が考えていたり言語化できないでいたりすることでしたから、余計に心に刺さってしまったんですね。
さらにさらに、私をびっくりさせたのは「その曲の歌詞を書いているのは19の歌い手である岡平健治さんや岩瀬敬吾さんではなく、326という謎の人物であったこと」でした。(ちなみに、後期19は326氏と袂を分けて、岡平健治さんや岩瀬敬吾さん両名が作詞作曲をしています。その後『隠』の方向に進む人間は、ここで岩瀬敬吾氏の方を好む傾向があると分析しています。私はそうでした。)
中学生の私は無知も無知でしたから、歌手は全員自分で自分の歌を作っているものだと思っていて、歌詞だけを提供して本人は表に出ないなんてことがあるとは知りませんでした。
その事実がより『言葉の力』みたいなものに対する羨望を強めたこともあって、それから私は『言葉』というものに取り憑かれることになります。
(調子に乗ってハイデガーを読んでみたのもこの頃です)
今振り返ると、私の初期青春の色みたいなものは19の楽曲に大体含まれていますし、言葉に対する価値観もこの頃に形作られたのだと思います。
2ndインパクト『藤原基央(BUMP OF CHICKEN)』
私がこの歳になっても比較的大人になりきれていない原因は、BUMP OF CHICKENの藤原基央さんの力によるものが大きいと思われます。
当時、高校生になりたての時期でしょうか。
彼らの2枚目のアルバム【THE LIVING DEAD】が発売されました。
このアルバムはいわゆるコンセプトアルバムの形をとっていまして、全ての楽曲が何かしらの物語をベースに作られています。
例えば【K】という曲では、黒猫の勇気が描かれます。
周りから蔑まされていた黒猫はいつも一人でした。
そんな彼を拾う絵描きの男性。
彼は黒猫に「僕らは似ているね」と言い、彼と共に過ごします。
そして絵描きは黒猫に『黒き幸(holy night)』という名前を付けました。
しかしそんな中絵描きが病気に倒れてしまいます。
絵描きは彼の愛する人に、自分が死んでしまうことを伝える手紙を書き、それを黒猫に託して帰らぬ人となります。
忌み嫌われる黒猫は、道中凄まじい攻撃に遭いながら、それでも諦めずになんとか絵描きの愛する人のところに辿り着き、そして死んでしまいます。
そんな想いを受け取った飼い主の愛する人は黒猫の墓にKの文字を加えて『聖なる騎士(holy knight)』として弔ってあげました。
もうね。
このあらすじを読んだだけで興奮してしまいます。
このコンセプトアルバムには他にもさまざまな素晴らしい物語が収録されています。今でも色褪せない名盤だと思いますので、よろしければぜひ聞いてみてください。
私はこの出会いによって「自分が思ったことを思った通りに実行することは恥ずかしいことではない」という認識を得ました。
THE LIVING DEADで語られる様々な物語を、大の大人が大声で歌えば、ある意味それは『恥ずかしいこと』と認識される危険性もあるほどのくさいストーリーです。
芸術というものはその『恥ずかしい』をあえて暴露する営みだと言えるのかもしれませんが、当時の私には藤原さんがそうして彼の内心を物語として吐露する勇気に、そしてそれが好意的に受け取られる世の中に、何かを感じたのだと思います。
この影響によって、おそらく一般的には大人になるにつれて隠されるようになる『自分の恥ずかしい本心』を、私は封印することなく大人になったのでした。
多分この原体験がなければ、哲学チャンネルを運営することはなかったのだと思います。
3rdインパクト『麻倉葉(シャーマンキング)』
時系列は前後しますが、私が中学生になる頃(1998年)週刊少年ジャンプで【シャーマンキング】の連載が開始しました。
【シャーマンキング】はその名の通り、シャーマン(日本ならイタコ)の能力を持った主人公たちが、霊を自身に降臨させながらシャーマンの王になるべくバトルを繰り広げる少年漫画です。
その作品の主人公である『麻倉 葉』
彼に性格を上書きされた方も多いのではないでしょうか?
この麻倉 葉の性格というのが、なんと言いますか、思春期の男の子がどうしても憧れてしまうようなものになっていまして。
例えば
・口癖は「なんとかなる」
・常に飄々としていて何事にも動じない
・それでいて「環境に影響が出ない程度には人間を間引くべき」みたいなシビアな考え方もする
・一人称は「オイラ」
・多くのシャーマンが思い思いの欲望を持ってシャーマンキングを目指す中、彼は「楽に生きられる世界を作りたい」という目標しか持っていない
・友達が傷つけられるとあり得ないほど激昂する
・シャーマンキングを決める格闘会、シャーマンファイトに参加する際のチーム名は「ふんばり温泉チーム」と異常なネーミングセンスを持つ
・常にヘッドフォンを着用
と、中二心をくすぐる要素が満載なんです。
同級生にこういう人いませんでした?
それは私です。
シャーマンキングの影響は今でも大きく、私の人生訓でもある「なるようにしかならない」という無為自然的な思想は、この頃に形作られたのだと思います。
この作品の影響で「世界を斜に構えて眺めつつそれでいて飄々としている」というような私の中二観が出来上がりました。
4thインパクト『エヴァンゲリオン』
言わずと知れた名作【エヴァンゲリオン】
初回放送は1995年で、しかも深夜放送だったので、私はリアルタイムで視聴することができませんでした。
確か、初めて視聴したのはまさに中学2年生の頃だったと思います。
実はエヴァンゲリオンが私に対して中二病的な意味で与えた影響はそこまで大きくありません。そもそも碇シンジにほとんど共感ができなかった人間でしたので。
しかし、価値観という意味での影響は多大です。
私は異常に四角形が好きなんですね。
それもあって、昨今のどんどん丸みを帯びようとするデザイン界のベクトルにはほとほと困り果てているのですが、そんな四角好きになった原因がこいつです。
第五の使徒(新劇版では第六の使徒)のラミエルです。
私はこいつに初恋レベルで心を奪われてしまいまして、それからというものの四角形に対する愛が止まらないんですね。
(変な意味でということではないのですが、そういう意味で京極夏彦氏の【魍魎の匣】における犯罪心理が少しだけ理解できてしまうという・・・)
普段動画をご覧いただいている方はなんとなくわかると思います。
動画内でも、なるべく丸いデザインを使わないようにしているきらいがありますので。
また、それ以外にも以下のようなカラーリング。
これ系統のデザインを無条件に「良い」と判断する価値観も、エヴァンゲリオンに植え付けられました。従ってモンスターハンターのブラキディオスにも無条件に惹かれてしまうのです。
一説に、人間は思春期(12歳〜15歳ぐらい)に消費したコンテンツの価値観を大人になっても捨てることができないと言われます。
私の場合はまさにそうですね。
そのころに経験したエヴァンゲリオン体験が、今でも自身の価値観を縛っています。
5thインパクト『野田洋次郎(RADWIMPS)』
そんな私も大人になり、社会に出ることとなります。
2008年。
私は22歳で、当時は調理師として働いていました。
そんな時期に発売されたRADWIMPSの5枚目のアルバムである【アルトコロニーの定理】
この作品は、もう少しでいわゆる大人になろうとする私にストップをかけてくれました。
中でも一番の衝撃を受けたのが収録曲の【おしゃかしゃま】です。
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カラスが増えたから殺します
さらに猿が増えたから減らします
でもパンダは減ったから増やします
けど人類は増えても増やします
僕らはいつでも神様に
願って拝んでてもいつしか
そうさ 僕ら人類が神様に
気づいたらなってたのさ 何様なのさ
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ちょうど、BUMP OF CHICKENに出会った時と似たような衝撃。
私はその頃社会に適応しつつあり、段々と『大人らしさ』を獲得している最中でした。
しかし野田さんはそんな私に
「本当か?」
「それで良いのか?」
という問いかけを与えてくれました。
この曲が直接の原因ではないのですが、結果的にこうした経験が遠因となり、私は勤めていた会社を退職することになるのです。
こうして私は大人になりきれずに、どこかで中二の頃に感じていた世の中への違和感や、自分の不安定さを感じながら生きていきます。
そして最後の衝撃に出逢います。
ファイナルインパクト『球磨川禊(めだかボックス)』
今回のコラムは『球磨川禊』について語りたいという欲求のみで書かれているかも知れません。
ちょうどこの前久しぶりに【めだかボックス】を読んだんです。
そしてやはり私の体の中には球磨川禊が埋め込まれているのだと確信しました。
なので、この章は少し長めに書かせてください。
【めだかボックス】は週刊少年ジャンプにて2009年から2013年まで連載された異能力バトル漫画です。
原作は【物語シリーズ】や【忘却探偵シリーズ】で有名な西尾維新さん。
本作は西尾維新さんの真骨頂である言葉遊びや、異能者を肯定するキャラクター運びや、メタフィクションいじりが随所に見られる非常に素晴らしい作品です。
物語の舞台となるのは箱庭学園という高校です。
その高校の生徒会長である『黒神めだか』はあらゆることを完璧にこなせる超人のような女の子で、学園内に設置した目安箱(めだかボックス)に投稿される生徒の悩みを一つずつ解決していきます。
しかし箱庭学園はただの高校ではありませんでした。
学園では学年ごとに1〜13組までのクラス分けがされており
・1〜10組:『通常(ノーマル)』とされる生徒が振り分けられるクラス
・11~12組:『特殊(スペシャル)』とされる一般よりも優れた能力をもつ生徒が振り分けられるクラス
・13組:『異常(アブノーマル)』とされる通常では計り知れない常識外の能力をもつ生徒が振り分けられるクラス
と、生徒を選別して管理しています。
黒神めだか本人も13組に振り分けられる『異常(アブノーマル)』の持ち主で、その『異常』は先ほども触れた通り「全てのことを完璧にこなすことができる」という能力でした。
他にも脳内の電気情報から他人の思考を読み取ることができる『異常』を持つキャラや、逆に他者の脳内に電気信号を送ることで洗脳を可能とする『異常』を持つキャラなど、さまざまな能力を持つキャラが13組にカテゴライズされています。
そして、そのような生徒を全国から集める箱庭学園の目的は、完璧な人間を作る仕組みを解明することであり、そのプロジェクトは『フラスコ計画』と名付けられていました。
この『フラスコ計画』を巡って、黒神めだかと他の異常者がバトルを繰り広げる・・・という形で初期のストーリーは進んでいきます。
そして中盤になり『フラスコ計画』の刺客として現れたのが球磨川禊です。
(のちに黒神めだかの味方になります)
この球磨川禊が、世の中二病患者に与えた影響は計り知れないのではないでしょうか?
彼は通常でもなく特殊でもなく異常でもない『過負荷(マイナス)』という能力を持つ能力者です。
『異常(アブノーマル)』の能力者がその類い稀な能力によって世の中にプラスをもたらすのとは違い、『過負荷(マイナス)』の能力者は世の中に有害な能力や性格を有した性質を持ちます。
球磨川禊は『大嘘憑き(オールフィクション)』という、物事や事物を無かったことにできる能力を持っています。そして彼自身のマイナスの性質により、彼の行動は常に不幸を生み出し、それは全て彼自身に返ってきます。
だから球磨川禊は人生の中で「勝った」ためしがない。
常に不幸の中に置かれ、孤独と無力感を享受しながら生きています。
なのにいつもヘラヘラしています。
(ちなみに彼のセリフには常に『』がついています。これは格好:括弧をつけるというダブルミーニングです)
『』がついた言葉には心がこもっておらず、常にその発言が本心なのか嘘なのか、はたまた彼に本心というものが存在するのか?という疑問を抱かせるほど、つかみどころのないキャラクターなのです。
私が彼に出会ったのはおおよそ25歳のときです。
ちょうど、生き方について悩み、今後の人生をどうするか路頭に迷っていた時期ですね。
社会に馴染めない自分に気づいてしまい、それでも社会に馴染むために努力を続けるのか、それともドロップアウトをして諦めた人生を歩むのか?
そんなことを日々考えていました。
しかし球磨川禊は第三の答えを提示してくれました。
それが、欠点を肯定して欠点を持ったまま生きるということ
彼は普段飄々としながらも、マイナスな自分の性質を肯定した上で、マイナスのまま勝つ・生きるという信念を持っていました。
その彼の信念は、私にとって救いとなるものでした。
つまり、自分の弱さを肯定して生きて行っても良い、それはドロップアウトではなく、それもまた強い生き方の一つである。
この出会いによって、25歳の私が捨てようとしていた10代から持っていた中二心が、真空パックされ強固に心の中に住み着くようになります。
そしてその真空パックは37歳になった今でも開封されていません。新鮮なままです。
ちなみに、彼は物語の最終版で後輩に向けてこんな言葉を残しています。
私は結構真面目に、このシーンは漫画史に残るものだと思っています。
これ以上詳しくは触れませんが【めだかボックス】がメタフィクションを大量に扱った漫画だということもあり、彼のこの「思い出せ」という言葉は、二次元と三次元の中間ぐらいに常に浮かぶような効果を持っていて、それだけに常に読者に勇気を与えてくれます。
私は心のどこかで『球磨川禊的な強さ』を目指しているような気がします。
無理やり強くなろうとするのではない。
自分の弱さを肯定した上で、それを卑下するでもなく、堂々と、そのまま生きる強さ。
そしてそれはもしかしたら、大人になるにつれて忘れてしまう、思春期特有の厨二病的なベクトルを持つ心なのではないか?
そうやって勝手に自己肯定をしているのであります。
完全なる自己満足コラムにお付き合いいただき、ありがとうございました。
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今回は以上。
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