『私的言語論と規則のパラドクス 前編(カブトムシの思考実験)』に関する動画のテキスト版
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こんにちは。哲学チャンネルです。
今回と次回、二回に渡ってウィトゲンシュタインの『哲学探究』での主張と、それに対するクリプキの解釈を取り上げます。
言語は、どのように生まれ、どのように扱われているのか。自分の中だけに存在する質感、すなわちクオリアを言語として表現することはできるのか。
ぜひ最後までご視聴ください。
「語りえないものについては、沈黙しなければならない」
いわゆる前期ウィトゲンシュタイン。『論理哲学論考』では「言語」と「世界」の関係性が模索されます。そこで彼は「言語と世界は対応関係にあるはずだ」と考えました。その上で、世界は物の総体ではなく、事実の総体であるとし、その事実と言葉が一対一で対応していることを示します。
さらに彼は論理学的なアプローチのもと、言語によって構成された命題に論理操作的反復を行うことで「語りうる」すべての命題を表せると主張しました。つまり「事実と対応するような言語」によって「世界」の記述が可能で「事実と対応するような言語」を研究すれば「世界」のことが理解できる *1逆に「事実と対応しない言語」をいくら研究しても、そこに明確な答えを求めることはできない。
ウィトゲンシュタインは、このようにして、人間が理解可能な問題の境界線を示しました。
その上で彼は「語りえないものについては、沈黙しなければならない」と残し、哲学の問題はすべて解決されたと考え、哲学の世界を去ったのです。
それから10年以上経ったころ、ウィトゲンシュタインは自身の理論の誤りに気づきます。
『論考』では「言語」と「世界(事実)」の関係が考察されたわけですが「言語」には、曖昧さという特徴があります。
ちょっと大阪の方に失礼な例えかもしれませんが、こんな会話を想像してみてください。
A「あれ、ちゃうちゃうちゃう?」
B「ちゃうちゃう、ちゃうちゃうちゃう。」
A「え?!、ちゃうちゃうちゃう?」
B「ちゃうちゃう、ちゃうちゃうちゃうちゃう」
これは対象がチャウチャウ(犬)かどうかを検討するための会話ですが、基本的に「ちゃう」という言語で構成されています。(イントネーションの違いなどはあるものの)言語とはこのように、その時の状況や「規則」によって、その意味が左右されるのです。
そこでウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という概念を提唱し「言語」と「規則」の関係性について追求していくことになります。
ちなみに、現代の哲学者の多くは言語分析に力を入れていますが、これは間違いなくウィトゲンシュタインによる影響です。そういう意味で、彼はその後の哲学の流れに大きな方向性を与えました。
後期ウィトゲンシュタインの理論は『哲学探究』にて提示されています。今回動画で取り上げたいのは138~242章で議論される「言語の規則」と243章~提示される「私的言語論」です。
順序が逆ですが、まずは「私的言語論」から見ていきましょう。
ウィトゲンシュタインは、次のような問題提起をします。
他者に理解されることのない、自分だけの言語は可能か?もっと言えば、内的な感覚すなわちクオリアそのものを言語として正しく表現することは可能か?ウィトゲンシュタインは、これらを「不可能である」と考えます。
普通に考えると、この結論には納得いかないですよね。例えば私たちは「痛い」という言語を持っています。そして「痛い」という感覚は、紛れもなく私たち固有の内的な体験であるはずです。彼は、この「痛い」という表現が、私たちの内的な「痛い」を正しく表現しているわけではないと考えるのです。
同時に、例えば自分固有の「痛み」という質感を「EAXXVV」のような出鱈目な言語で表現しても、それは「痛み」という質感を差し示してはいないと考えるのです *3
一度聞いただけでは、全く意味がわかりません。
もう少しこの主張をイメージしやすいように彼が提案したカブトムシの思考実験というものを見てみましょう *4
ここに複数人の人がいて、彼らはそれぞれ箱を持っています。箱の中には私たちが「カブトムシ」と呼ぶものが入っています。しかし、彼らはそれを互いに覗き見ることができません。
彼らはそれぞれ「自分の箱に入っているのはカブトムシだ」と確信していますが、自分の箱のそれと、他者の箱に入っているそれが同じ「カブトムシ」なのかはどこまで行ってもわかりません。
例えばAさんが「ツノがあって黒い」と言ったとしてもBさんの箱には(Bさんがカブトムシだと思っている)クワガタが入っているかもしれないし、Cさんの箱にはカブトムシの絵が入っているかもしれません。もっと言えば、Dさんの箱には全く何も入っておらず、Dさんはその何もない空間を「ツノがあって黒いカブトムシ」だと認識しているかもしれないのです。
なぜそのようなことが考えられるのでしょうか。
人は「明確な対象」があることで、そこに「名前」をつけることを可能とします。
例えば、バラ科モモ亜科スモモ属の落葉樹で薄紅色の繊細な花弁が5枚ある植物のことを、私たちは「サクラ」と呼びます。
なぜ「サクラ」という明確な名前を設定できるかというと、それは「サクラ」という対象が誰の目からも明確に存在しているからです。言い方を変えれば、共同体の共通認識として「それ」が存在するからです。
このように言語は「共同体の成員がそれぞれ明確に認識できる対象」を前提に形作られます。まぁこれも厳密にいえば「それぞれが認識しているサクラ」がどこまでいっても同定できないので、「正しく対象を表した言語」とは言えないんですけどね。ここについては後編でもう少し詳しく触れます。
「箱の中のカブトムシ」には明確な対象が存在しません。自分だけにしか認識できない「箱の中のカブトムシ」を説明しようとしても「対象が共通認識として明確に存在していなければならない」という規則から外れてしまっているので、カブトムシの表現の文法を構築することができないのです。
話を戻しましょう。
私の「痛み」の感覚は、他者が経験することができません。その意味で「他者が知りようのない対象」つまり「箱の中のカブトムシ」と同じ性質のものなのです。
私たちは確かに「痛い」という言葉で自分の「痛み」を表現できます。
そして心のどこかで、自分の「痛み」と他者の「痛み」は共通のものであると感じています。
そうじゃないと他者に共感できないですからね。
しかし、ウィトゲンシュタインに言わせれば、自分と他者の「痛みの質感」が同じものか否かはどこまで行っても確認不可能であり、他者の「痛みの質感」を知ることも、自分の「痛みの質感」を伝えることもできないわけです。
彼は「痛み」という言語は、その感覚が共通認識として存在したから生まれたものではなく「痛み」という言語で私的感覚を紐づけたから、それぞれの感覚が「同じものである」という認識になったのだと考えます。
まさにクオリアの問題ですね。
少し雑な表現になってしまいますが、ウィトゲンシュタインは「クオリアを言語にて正しく表現することはできない」と主張したと言えるかもしれません。
冒頭にも触れましたが『哲学探究』では「言語」と「規則」の関係性が考察されます。
言語はどのような規則によって存在しているのか、そもそもどのような仕方で規則が生まれるのか、そして人はどのように規則に従うのか
そのような探究の末、ウィトゲンシュタインは一つのパラドクスに辿り着きます。
曰く「行為(言語)は規則に従うことができない。なぜなら、いかなる行為(言語)も規則と一致させることができるからだ。」
これまた非常に難解な内容です。
ある規則があったときに、行為や言語がその規則に従うことは不可能だとし、その理由として「いかなる行為や言語も規則と一致させることができるから」と言うわけです。
前提を証明するために、前提とは真逆の論理を用いているので、これはまさにパラドクスです。
私たちは自転車に乗ることができない。なぜなら、あらゆる人は自転車に乗ることができるからだ。ちょっとニュアンスは違いますが、こういう意見を耳にしたら、頭がおかしいんじゃないかと思ってしまいますよね。
この規則のパラドクスをどのように理解すれば良いのでしょうか。
ウィトゲンシュタインが提示した規則のパラドクスと、その後に続く私的言語論。
これを一挙に解釈し、解決しようとしたのが、現代最高の哲学者とも称されるソール・クリプキです。
次回はクリプキの提唱した「クワス算」を取り上げ、彼のウィトゲンシュタインに対する解釈を見ていこうと思います。
以上です。
□注釈と引用
*1 論理哲学論考 4-26
「真なる要素命題をすべて列挙すれば、世界は完全に記述される。要素命題をすべて列挙し、さらに、それらのうちのどれが真でどれが偽であるかを述べれば、世界は完全に記述される。」
*2 『哲学探究』 鬼界彰夫訳 講談社 p190 243章
*3 『哲学探究』 鬼界彰夫訳 講談社p197 257章
*4『哲学探究』 鬼界彰夫訳 講談社P212 293章
*5 『哲学探究』 鬼界彰夫訳 講談社P173 201章 「我々のパラドクスはこうであった。 規則は行為の仕方を決定できない。 なぜなら、いかなる行為の仕方も規則と一致させることができるであろうから。」
□参考文献