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夏目漱石「三四郎」「それから」「門」

夏目漱石の前期三部作「三四郎」「それから」「門」は、大抵の日本人が一度は手に取って読んだ事がある小説です。ここでは具体的なあらすじは控えて簡単な概略にとどめ私の読後感想を主に書きたいと思います。
「三四郎」は、田舎から都会に出て来たうぶな男子学生の経験と成長を描き出すと共に彼の周辺に集まる高尚な都会的近代人を描いています。「それから」は、彼のような学生「代助」が大学を卒業した後も親の金で遊びを満喫する中、既に自分の勧めで親友と既婚している女性「三千代」を以前から愛していた事に気が付きます。色々と苦しみますが最後は全てを捨てて二人で新しい人生を始めようとする物語です。「門」は、そのような二人「宗助」「御米」がどこからの援助もなく厳しい生活を強いたげられながら普通の生活を送ろうとしますが親友を裏切った為に呪われているかの様に悪運に何回も会い最悪は裏切った親友の再現かにも脅かされる人生を綴っている物です。
この三部作の中で特に目立ったのは、必ず漱石の小説にある最終章に起こる最大の山場が「門」にはないことです。「門」は、既に半ば頃からズルズルと引き延ばす小説に感じている上に山場のない幕締めは花火大会で最後の打上がないと同じ期待外れを強く感じました。
「それから」は、最も良い作品です。『それから予約』の紹介にある「まさにそれからである」を読んだ時これは少し軽いかなと勘違いさせられました。漱石は、力んで行き込んだ「それから」であったのです。「余裕派」の流れを思う存分味わえる小説ですがこの時代の混沌した世の移り変わりも大いに感じます。三部作は裕福族の崩壊を底辺に流しながら彼らがこの非常事態にどう対応したかも書いています。この代助は千代子との愛の為に一般庶民の生活又はそれ以下を選ぶ事になる訳ですが漱石の考えがこれに反対か賛同かは小説からは分かりません。多分この時代では世論は、「無謀な行動」の意見が大半だったと推測します。ある点でこの物語に似た経験を持つ私には代助よく決意したと100%賛同します。いつも感じますが漱石の人々の感情描写や状況描写は本当に素晴らしくリアリスティックで私の経験に非常に近く胸が締め付けられて仕方がありませんでした。辛かったあの時を思い出しもしましたが同時にその裏にあったあの新しい希望と愛の讃歌が出て来て苦しみをカバーしました。
「三四郎」は、この三部作の序曲の役目をしており他の二作よりも軽やかな流れがあると感じました。青春期を対象にした作品に合っていると思います。美穪子と宗八の恋愛関係がなかなか進まない中、始めて女性に目覚めた三四郎は美穪子のからかいも手伝って彼女に恋心をいだき始めます。が結局は美穪子が宗八の友人でもありまた宗八の妹の縁談相手に登った男性と結婚をしてしまいます。宗八の気持は古い結婚招待状を八ツ切にするのみに書かれているだけです。この小説のテーマにStray sheep(迷い子)があり美穪子、宗八、三四郎だけでなく場人物全員がStray sheepであること、もっと大きくはこの時代がStray sheepであることを漱石は訴えています。明治維新から日本が特急で何もかも西洋化する事に対し日本の良さや純日本は大切に守らなければいけないと訴えています。
この純日本の流れは三部作全部に流れていて三作目の「門」の最終で宗助が最後の助けとして禅寺に行くのはその象徴かとも考えました。漱石のこの警告は決して過去の物ではなくて現在もいや現在の方がより心配しなければいけない問題点だと感じています。世界が日本も二極化する中、特に右翼系に現われている間違った日本擁護は目に余る物があります。日本の本当の良さは何かをもう一度考え直す必要があります。この文豪達の小説や随筆はそれの為に良い教科書だと思います。読めば大半は分かって来ます。今回はこれで留めておきます。
最後にここまで漱石の小説を読んで来て彼の書いている女性達を見て実は、漱石はこの新しい動きをする女性達をバックアップしていたのではないかとより思う様になりました。
追記
arbiter elegantiarumは漱石の小説に度々出て来ますがThe Oxford Dictionary にA judge of artistic taste and etiquette芸術センスとエレガンスの判断の意味でこの時代の小説家達のレベルの高さに驚きます。
漱石の経歴に「門」の創作の最終は大病の為に創作活動が困難だったとありました。その影響で「門」が出来上がっていた様です。残念です。

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