夏目漱石「彼岸過迄」「行人」「こころ」③
「こころ」は、新潮文庫の歴代もっとも売れている本です。ここであらためてあらすじを紹介する必要ないと思います。「こころ」は色々な意味で漱石を代表する小説だと思います。この後期三部作に流れる短編小説を積み上げて長編小説に仕上げるやり方や小説の最終部にクライマックス、結論を持ってくるやり方またこれらが読者を十分に唸らせる内容を持っているだけでも十分にその価値があります。そして漱石を作家として大きく成功させた小説でもあると思います。小説の最終部『下 先生の遺書』が新聞に掲載された時は、最初に書かれた短編小説である点も面白いところです。
後年の漱石の追求テーマでまた後期三部作でもあるエゴイズムについて深く考えさせられる小説です。制度で縛られた江戸時代から西欧の自由主義、個人主義が入って来て明治時代、大正時代が一般社会や生き方に大きい混乱を起こしたは、推して知るべしですが、知識人特に夏目漱石がこの時代に流行した色々な小説家達の『派』の事よりも哲学に近い人間性や生き方の追及に重きを置た事は大いに頷けます。
「こころ」の中で、先生とまで読んで人格の高い人と尊敬していた人間が実は、友人の恋心を横取りしてその女性と結婚それで友人は自殺、その本当の理由を誰も知らず義理の母親はそのまま亡くなり奥さんにも最後まで言えません。それが故に先生は、一生涯その責務の念から逃れることが出来ず精神上は日陰者の様に過ごしこの手紙が自殺直前の告白です。安易に罪のある先生ではなくて漱石はエゴイズムを考えています。小説の主人公の「私」も家族親戚のこころを無視して危篤状態の父を残し先生の元へ列車に乗って仕舞います。こころにある先生、「私」のエゴイズム、もっと云えばどんな人間にもあるであろうエゴイズムは全て悪いであるで片付けられのか?人間が個々で存在してその個人を大切にする事は当然で基本で有り何処までそれを主張出来るのか?他方で人間が共同体の中で共存する生き物で有り何処までそれで個人を犠牲にするのか?
私はこの究極が不条理の一つと考えています。個と集団、相反するものが両立しなければいけない上に決して片方だけでは存在出来ないこの矛盾は不条理そのものです。そしてこの不条理は、不幸を招く可能性のある非常に危険なものです。それを避ける為には、不条理を認め受入れながら相反するものを上手にバランスを取って最良点を見極めて行く事だと思います。
既に文豪の時代にこの事は大きく取り上げられていて龍之介、太宰、などを始めとし多くの人々がこの結論に苦しい戦いをしています。他方でこれが為に一例として一方だけになりがちな共産主義に賛同しないで彼等が独自の道を歩いたとも言えます。悲劇は、この結論では大日本帝国軍の侵略行為の様な政治的行動の是非を見きわめる事は出来ず文豪の大半が自然にそれに賛同してしまった事です。
不条理は結論であっても解決策ではありません。どこにバランスを取るかはその時々で違って来ます。エゴイズムにしても現在の方がより個人に重みが置かれ100年前では考えられなかった個人尊重の解決策が重宝がられています。
多分、現在では先生の行ないも許される可能性が大だと思います。先生の友人Kが弱すぎる、単純すぎる、子どもすぎるで片付けられてしまうと思います。
夏目漱石の小説は、読んで十分に考えさせられる非常に新鮮なものと思いました。また次から次えと出て来る私の質問に対して、インターネットで手軽に調る事が出来るのでより滿足して読む事が出来ました。例えば漱石の夫婦関係とか学歴、生活特に健康等また職歴や作家活動殆んど全て簡単に調べられより楽しく彼の小説を読めました。文豪として最右翼に挙げられる夏目漱石を大人になってもう一度読んで見る価値は十分にあります。映画を見ただけでは小説の色々な箇所を見落としていて全く勿体ないと思います。是非読んで見て下さい。
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