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つゆ

 私が生活をしている東海地方は、観測史上2番目に早い梅雨入りをしました。これまでも、観測や感覚に関わらず、早く感じる梅雨入りは、どことなく梅雨らしくなかったり、本来の梅雨のイメージに到達しないような機能たらずな感じがありました。

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 ところが、日本は南北に長く、場所によっては迷惑なほどの降雨量を記録する時があります。人の体に例えると、喉が渇いて水分を補給する際に、一度に大量の水分摂取を行うと、発汗が急激に行われることで、体内に残留する水分が、こまめに水分補給を行った時よりも残らないという説があります。梅雨に関しても、一度に大量の降雨があると、山から河川を通じて一気に水が流れ出し、従来の梅雨が果たすべき機能が損なわれていると聞きます。本来の梅雨はシトシト、じわじわと地中に染み込む雨水が、地中の栄養を海へと運び、その栄養が夏の生物増殖の起爆剤となっているようでしたが、その仕組みがゲリラ豪雨では損なわれてしまっています。

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 しかも、損なわれるだけでなく、濁流が生じる流れには、海が歓迎しないゴミが多量に含まれています。時間が経てば、栄養として加担する自然ゴミだけではなく、最近流行りの分解しないゴミまでを最終処分場に運ぶかの如く流れてきます。海の持つ生来の包容力は、この余分なゴミを拒絶できません。蓄積する一方なのです。これを取り除くのは、発生源として加担してきた人間に他なりません。海洋生物が何らかの状態で摂取や危害を被り、その末路がネット上で話題になっていますが、事実として勿論少なからずはあるでしょう。しかしながら、仮にその事象が事実だとしても、生物の分母の内のどの程度の分子が紹介されて、その事象を批判的対象としているのでしょうか。人は、自分が正しいと思った、あるいは思うように誘導された事象に対して真摯に取り組みます。性悪であろうが性善であろうが、自分の思う正義を振りかざすことが大好きです。でも、今一度よく考えてみてください。我々人間も、食べ物でない物を食べ物や飲み物として提供されて、それを摂取していますが、それが生命の終わりに直結しているでしょうか。自然界の生き物が、間違えてビニールやその他の人工物を摂取することは少なからずあると思いますが、その量が自身を死に至らしめるほどの量に果たして達するのでしょうか。

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もう少し冷静に自然を見つめましょう。情報社会に身を没していると今起きている状態が情報によって湾曲されたり、事実無根の空想を信じ込まされたりします。山でも海でも、アスファルトやコンクリートのない環境に出かけてみてください。そこで感じることが事実であって、誰かの都合で形成されている情報が如何にチープなことであるかを知ることができます。もっともアスファルトやコンクリートに囲まれて、文明の傀儡として生きるように仕向けられているのも事実ですが、週に1度は情報とのパイプをなんらかの方法で遮断する時間を作ってみるのも良いと思います。
鬱陶しく感じる梅雨も傘をささずに濡れてみれば、自然とつながっていると実感できる簡単な方法です。
とは言え、雨の日に海の中に入ってまでこんな写真を撮っているのは、普通の人の目には立派な大人として映っていないと思います(笑)。

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