時間という列車
車を運転していて、よく思うことがあります。
この信号に引っ掛からずに、青で行けていれば、1本前の列車に乗れていたんだろうな。
ここで言う1本前の列車とは、目的地に早く着くという比喩として用いているだけのことです。
これは、警笛が鳴り始めた踏切や渡りたいという意志のある歩行者がいる横断歩道でも同じように思います。
明らかに制限速度よりも遅く、無意味な安全運転をしている車の後ろについてしまって、信号が赤に変わってしまった時も思います。
つまり、毎日毎日の通勤でそのように感じているのです。
このように書くと、すごくせっかちで不安全運転者のように思われるかもしれませんが、信号は無理ぜず止まり、踏切も歩行者がいる横断歩道も気がつけば、必ず停車します。遅い車がいても無理な追い抜きや煽り運転(笑)なんかしません。もちろん、メールを見ていたり通話をしている状態が見て取れれば、あっさり追い抜きますが。
このことでストレスを感じたり、イライラしたりする訳ではありません。乗れなかった列車は、乗れないはずだったのですから。
多分、40代の頃であれば、その列車に乗れたはずだったのに!と思っていたと思います。乗れないはずだったと思うようになったのは、50歳になった辺りからではないかと曖昧な記憶ではありますが、そう思います。
これは「老化」によって、色々なことに対する諦め思考の一環に思われるかも知れません。全くないわけではありませんが、それは「老化」を悪いものだと決めつけている一方的な見解に過ぎません。
できないはずの事、あるいは無理なはずなことを押し通すと、その歪みはどこかに発現します。痛みや苦痛を伴うこともあれば、知らず知らずの蓄積が不幸運となって思考や感覚、判断を狂わせます。それがもとで、少なからず財産を失うこともあるでしょう。
老化は、ある程度の人生を歩んできた人に与えられる「ゆとり」だと考えています。ここまで一生懸命に生きてきたのに、なおかつセカセカ動き回らなければならないなんて(笑)。機敏に動けなくなるのではなく、もぉゆっくりと動くだけで事足りる状態に入ったのです。そんなご褒美に気が付かず、なんだか焦っているように見える人って周りにいませんか。
残りという意味を含めて、ゆっくりと動くことは時間的な制約からできることは必然と減ります。そうすると何が大切で、どの優先順位を選択するかが重要になります。その選択ができない人が、下手な鉄砲のように撃ちまくって徒労を味わうことになるわけです。ただし、下手な鉄砲でも、自分が当たっていると思っている失敗を知らない幸せな人も世の中にはおりますので、それはまた違う次元での列車に乗れているってことなのかも知れませんね。
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