自分の立ち位置を放棄せず、自分のやるべきことを

 人間は基本的には、自分のやるべきこと、やれるべきことに全力を尽くし生きた方がいいと思うのだ。
そしてどうしたって、知性や体力、そして性別によって「やれるべきこと」は変わってくると思うのだ。
知性も知識も経験も医師免許もないぼくが急に、脳外科的な手術をやらせてくれって言っても誰もやらせやしないでしょ。
人にはそれぞれやれることとやれないことがある。
それは確実にある。
ないとは言わせない。

 たまたまぼくはわりと体力と腕力に優れているので、誰かと一緒のときにはそれを用いるような作業を受け持つだろう。
「男だから」受け持つのではなく、その役割を押しつけられロールプレイを強いられているのではなく
「ぼく(がそれに優れているから)だから」受け持つ。
そのときにいちいち性別だの、社会的な立ち位置だのが頭に浮かぶことはない。
たまたまぼくが優れているから、適性があるから、それをやった方が群全体として効率がいいから。
ただそれだけのこと。
そしてだいたいの個体、多くの場面において、生物学的に雄な方が、そうした面では優れているだろう。
ならそれが役立つようなことには、ぼくたち雄が率先して向かっていけばいい。
そうした在り方の何に問題があるのかよく理解できない。
勿論、群れでの共同作業なのに役割によって分け前に格差があるのなら、是正されるべきだろう。
そうした問題とは別の話。
自分のやるべきことから逃げてはならない。
精神なんて内側のことなんだから勝手に決めたらいい。
でも肉体はそれとは別なんだ。

 性自認云々ジェンダー云々なんていう悩みは社会ありきで、そうしたシステムの中でしか発生しないのだろうけれど、わざわざ対立を煽ったり、マイノリティの迫害の歴史を怒りと悲しみを込めて語る必要もなく
「目の前にいる人間にそいつが望まないロールプレイを強いるなよ」
ってだけのことを教えれば済む話なんじゃないのか。
何でチ○コをぶら下げた奴に女子トイレを使用させるなんていう話になるんだ。
肉体が男だけれど精神が女だからスポーツの大会に女枠で出場するみたいな話になるんだ。
そんなもんどう考えても、肉体で(それに伴う体力&腕力で)区別するべきモノだしコトだろ。
気が狂っているとしか思えないし、どうしても区分けしたいのなら
「精神は女な男大会」
だの
「精神は男な女大会」
だのを新しく設けるしかないよな。
明らかに平等じゃねえもん。

 いや、わかるよ。
そうした縛りからの解放を目指すための活動全てに意味のないとは言わないし、多少なりとも差別され迫害されてきた歴史があるのなら、そこからは脱却したいだろう。
それはよくわかる。
でもさすがに近頃は暴走しすぎだし、本来の目的からかけ離れた活動に熱が入っている方が多くないですか。

 あとまあ個人的には、性別やら国籍、人種やシューキョーみたいなラベリングとカテゴライズから例え逃れることができたとしても
「ぼく」や「きみ」に対する先入観から他者が勝手に抱く「ぼく」や「きみ」への役割への期待や、内側に対する幻想やら期待やらからは死ぬまで逃れることはできないだろうと確信しているので、性別やら環境やらからラベリングしたぼくの(きみの)姿から、ぼくに(きみに)何かを押しつけてきたとしても、誤差な気はする。
ありとあらゆる属性が自分から消えたとしても、内側を覗いて(覗いたつもりになり)それに似合いの役割を押しつけてくるぞ他者は。
それが嫌なら、自分の望む自分の姿をしっかりと体現し表現し、誰にでも理解できるように生きていくしかない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?