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日本語の革命児 紀貫之 2

 紀貫之が革命児たる所以を書いていないことに気がついた。いやはや、である。ここからは、あやしげなぼくの歴史理解に基づく話なので、眉につばをつけて読んで欲しい。

 その頃はすでに、日本に漢字が伝わってずいぶん経っている。漢字は中国語として読むだけではなく、その音をむりやり日本語の音と紐付けた万葉仮名、中国語を漢文にして読む(訓読して日本語の文脈で読む)訓読法の2つの方向に分かれて、日本語の中に吸収されていく。前者は大和言葉(当時の日常の言葉)を文字に書き記したいという思いから、後者は文明・文化の先進国である中国の知見を学びたい、広めたいという思いから発展していく。中国語を学ぶより、中国語に返り点をつけて日本語の形にして読む方が、学習は容易だ。

 そこで二つのことが起こった。一つは万葉仮名の混乱だ。馬も麻も母も嗎も音は「ま」なのだから、当然、大和言葉の一音に対応する漢字は複数出現する(例に挙げた発音は現代中国語の発音によっている)。一つや二つそんな音があるだけなら筆者の個性によって使い分けるのもよかろうが、すべての音に複数の漢字が当てはまるのであるから、何が何やら、となるだろう。
 もう一つは、膨大な数の外国語の流入だ。なんせ文字のないところに文字がなだれ込んできたのだから、それをそのまま覚えてしまった方が早かろうということか。基本的に、中国語を日本語として判別しやすい音に微調整して、漢語の概念を音も意味もそのまま受け入れた。元来、日本語にはない言葉なので改めて学習しなければならないが、一度覚えてしまえばたいそう使い勝手がいい。この大量の漢語の流入が、それを学んだものと学んでいないものの間に格差を作ることになる。

 万葉仮名はその使用を重ねることによって、徐々に統一されてくる。ある程度、数が少なくなった万葉仮名は使い回され、共通使用の前提ができる。そうなれば、少々字の形が変わっても互いの了承が得られるようになる。画数が多く面倒くさい漢字は、徐々に形を変えて(草書体になって)わかりやすいものになる。ひらがなの誕生だ。ひらがなは漢字の音を拝借して、大和言葉の音に当てはめたものに過ぎない。だから「仮りの名」にすぎない。漢語を学んで覚える必要もなく、旧来の大和言葉を書き記しただけのもの。大きな世界(政・仏教)とはつながらない生活を描くもの。「女手」と呼ばれるようになる。

 一方、中国語をまるごと学ばないまでも、そこに使われている熟語の読みと意味を覚え、その翻訳法(訓読法)を身につけた者はエリートであり、出世の道も開ける。翻訳にはさまざまな記号が用いられた。その一つが漢字の一部を使った送り仮名だ。それがカタカナと呼ばれるようになる。知識を得た者は、知識を持たない者を差別化する。知識は秘匿されてこそ力を発揮するのだ。漢字は「真の字」であり「男手」と呼ばれ、女性が使用することを禁じられた。現代の英語神話と一緒だ。エリートは英語を話せて当たり前と言い、一方で「日本人は英語を話せない」と呪いをかける。

 当時の識字率は、都でも一割以下だと言われている。それがさらに二分化(漢文の読み書きができるエリート層・男性とひらがなの読み書きしかできない層・女性)されていた。

 紀貫之が「古今和歌集 仮名序」を著したのは、そんな時代である。日本初の勅撰和歌集である「古今和歌集」には、もちろん漢文で書かれた「真字序」もある。そちらは、身分も年齢も上である大学頭、紀淑望(きのよしもち)の筆による。紀貫之の身分は、ずっと低い。この後、越前や土佐など地方に飛ばされる役人の一人に過ぎない。

 紀貫之は言った。「やまとうたは、人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。」

 紀貫之は、ここに「エリートによる漢文が世界を牛耳っているわけではない! やまとうたは、生きとし生けるものすべてのものだ!」と宣言しちゃったのだ。言葉はみんなのものだ!! 

 紀貫之を「日本語の革命児」と呼ぶのは、彼が確かに新しい道を切り開いたと思うからだ。そして、その道は現代まで脈々とつながっていると感じるからだ。

 だって、ぼくらにもわかるじゃないか!
 彼の言葉は、いまも生きているじゃないか!!

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