たかが30秒のコマーシャル されど
ACジャパンのスタートライン(支援キャンペーン)を見た。子どもたちの9人に1人が貧困家庭に生まれていること、貧困が生み出す教育格差が子どもを苦しめている現状を、スタートラインに模したアニメと、「頑張ってるのに、一生追いつけないのかな。わたしは、未来を選べないんですか。」という少女の台詞で訴えている。
2024年度支援キャンペーン:スタートライン|ACジャパン (ad-c.or.jp)
このキャンペーンを見て、教育格差について考える人が増えるのは望ましいことだ。たぶん。でも、なんだか落ち着かない。
落ち着かない理由は、スタートラインのアニメにある。アニメは、9人に1人が貧困家庭にある事実にのっとって、前方のスタートラインに8人が横一線に並んでおり、1人だけはるか後方のスタートラインに立っている。そこからスタートを切るのだが、一所懸命に走っても前を行く8人には追いつかない。そこで前述の台詞が出てくる。
40年以上、教育現場にいるぼくには、このような構図は思い浮かばない。子どもが9人いるのであれば、9人のスタートラインはみんな違うし、向いている方向も違うのだ。混乱しないように、この2つを分けて考えたい。
まず、9人の子どものスタートラインはみんな違うという点について、ぼくの実感で、その線を引き直してみる。
飛び抜けて前のスタートラインにいるのが1人(仮に、そこをポイント10とする)。そこから少し離れたポイント8のあたりに1人、さらにポイント6のあたりに2人、その後ろのポイント5から3のあたりにパラパラと1人ずつ、そしてポイント2と1の境界線あたりに3人がいる。3人のなかの1人が、貧困層ラインを切っている。(スタートラインの差は、単純に世帯収入とも言い切れない。住んでいる地域環境、両親や親族の最終学歴、教育に対する意識などが複雑に絡み合っている。)
こんなイメージだ。ハンディを背負っているのは、9人のなかの1人ではないのだ。だから前述のアニメを見ても、そんなに単純ではないよなと、違和感が残る。
もう一つの違和感は、みんなが同じ方向を目指しているということだ。同じ方向(高収入のために高学歴)を目指す競争に、みんなが参加しているように感じてしまう。でも、本当にそうだろうか。子どもたちはみんな東大に入ること、医学科に入ることを望んでいるのだろうか? 希望が、福祉や幼稚園の先生ではダメなのか? 大工になりたい、漁師を継ぐという希望は?
どうしてみんなが同じレースをしている前提になるのか?
それは大人社会の格差を反映しているのだろう。「なんだかんだ言って、給料は高い方がいいよね。高い給料を取れる人が勝ち組で、そうでない人はみんな負け組だからね。だから高学歴でなくっちゃ」って、それが本音だと、みんなが思い込んでしまった社会。
職業に貴賎はないし、収入の多寡が人を決めるのではない。そんな当たり前のことが、当たり前ではなくなった社会。それを「きれいごと」と言うようになった社会は、どんな社会なのだろう。
30秒のコマーシャルで、こんなことを考えた。
制作陣は、広く伝えるために、わかりやすく戯画化したと言うだろう。それも理解できないわけではないが、やはり……。
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