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生まれたての言葉を味わい、沈黙を聴きに行く 友部正人の「歌い言葉」
さわると熱い 君の肩を
僕の腕の中に しまっておくんだ
今夜はずっと いっしょにいようよ
ふーさん
(作詞・友部正人「ふーさん」『にんじん』1973より)
友部正人の詞は、紙の上に書かれた言葉だけでも充分に立ち上がります。
和歌山の海で 育ったという
君にはなんだか なつかしい匂いがする
手足のかわりに しっぽをはやしている
ふーさん
(同上)
充分です。ふーさんと詩人が、あまりきれいではない飲み屋で隣り合って飲んでいること、ふーさんの辛い来歴、詩人のふーさんへの想い、ふーさんの人となりが伝わってきます。
あんまり長く 一人ぼっちでいて
唇もこんなに かたむいてしまった
今夜はずっと いっしょにいようよ
ふーさん
(同上)
もうこの言葉だけで、おなかいっぱいです。そこには、一つの静かな風景が描かれて、それだけで、ぼくはしんとした気持ちに浸ることができます。
ところが、それが友部正人の「歌い言葉」として出てくると、彼の声を通して語られると、それだけでは済みません。静けさが広がります。ふーさんも詩人も、ぼくの中に入ってきます。ふーさんの寂しさ、そんなふーさんに対してなんにも手助けできない、一緒に飲むことしかできない詩人の切ない思い、愛が、全部、まるごと、眼前に放り出されます。
友部正人の「歌い言葉」は、私たちの言葉の垢をすすぎ落とし、生まれたての言葉の姿を、一瞬、見せてくれます。それは、友部さんの声の力、言葉を投げ出す、その力なのでしょう。
友部正人の「歌い言葉」を語るのであれば、「一本道」を語るのが王道です。(でもぼくの一番のお気に入りは「ふーさん」なので、上のような話になりました・笑)
ふと後をふり返ると
そこには夕焼けがありました
本当に何年ぶりのこと
そこには夕焼けがありました
あれからどの位たったのか
あれからどの位たったのか
(作詞・友部正人「一本道」『にんじん』より)
有名な「あゝ中央線よ空を飛んで/あの娘の胸に突き刺され」の一節を待つまでもありません。この冒頭部だけで、この歌がどうして、ぼくらに迫ってくるのか了解させられます。リフレインの「あれからどの位たったのか」の直後にやってくる、ぽっかり空いた暗い穴。誰もが、そこに耳を澄ませてしまうからです。
「一本道」に限った話ではありません。友部さんの「歌い言葉」は、いつも聴き手に沈黙を聴く耳を求めます。ですから、彼のコンサートに行って、彼の姿を視界で捉えても、ぼくの思いは自分の中に深く深く潜っていくことになります。
音のないところに耳を澄ませる聴き手たち。そんな聴衆を生むのが、友部さんの「歌い言葉」の力です。そんな歌い手には、なかなか出会えません。
歌は歌えば詩になって行く
この眠れない毎日に
歌は歌えば詩になって行く
それですべて救われる
(作詞・友部正人「歌は歌えば詩になって行く」『ぼくの田舎』2013より)
40年経とうと50年経とうと、友部さんは友部さんで。
言葉だけでは完成しない、「歌い言葉」の世界を、瞬間瞬間に創りあげては、消えるに任せています。
その人はぼくをぼくの名ではなく
スカイと呼んだ
ぼくはその人の名を知らず
ただワンとだけ答えた
(「SKY」同上)
相変わらず生まれたての言葉を歌い、ぼくらを沈黙に導いていきます。
ぼくらは、彼のLiveに、沈黙を聴きに行くのです。
いそいそと。少し恥ずかしげに。