日本語の革命児、紀貫之
やまとうたは、人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思わせ、男女(をとこをんな)の中をも和らげ、猛き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。
(「古今和歌集」 仮名序 冒頭部 日本古典文学全集11)
何度読んでも、ため息が出る。書かれたのは西暦九〇五年頃だというから、今から1100年以上前だ。
声に出して読んでみる。きっと、紀貫之自身も声に出して何度も読んだであろう、その一語一語をゆっくり声にしてみる。もちろん当時の日本語の発音と現代のものは大きく違う。それでも紀貫之の出した声が、ずーーっと響きあって、今、ぼくの口を通って出てきた、そんな感慨を持たずにはいられない。
ぼくは彼の研究者ではないし、古文についてもよく知らない。だから、この人について詳しいことは言えない。でも、この古今和歌集仮名序冒頭部を語るのに、そのような権威やエビデンスの必要はないだろう。だって、わかるんだもの。
その「わかる」ということに、何度も愕然とする。紀貫之の言葉を選ぶセンスや和歌に対する分析、和歌論に感動するのではない。いや、もちろんそれも確かに凄いのだけれど……。
ぼくが感動するのは、古今和歌集仮名序の冒頭部分にある、これら言葉の一つひとつを大切に伝えてきた、1100年以上昔から現代に至る、無数の人々の何気ない生活の中でのおしゃべりである。
言葉は変化していくのが常態だ。新しい言葉が次々に生まれ、古くからある言葉を片隅に押しやり、意味を変化させ、一般には使われない言葉にしていく。
現代だけではない。どんな時代にも新しい事物の名称、外来語の導入、若者言葉の氾濫はあったはずだ。時代は、いつもその時「現代」だったのだから。言葉は、いつも激しい風雨にさらされてきた。
1100年以上もの長い間大きく意味を変えずにいた、この言葉たちにぼくは感動する。この古今和歌集仮名序の冒頭が、今のぼくたちにも「ふつうにわかる」のは、単なる偶然のことではないとさえ思う。
意識的か無意識的か分からないけれど、ぼくたちの先祖はこの言葉たちをそのまま次の世代に受け渡したいと願い、大切に扱い、行動してきたのではないか。そして現代のぼくたちもまた、これからさらに100年後、1000年後の日本語話者たちに、古今和歌集仮名序の冒頭をそのまま受け渡したい、そのままわかって欲しいという願いを、どこかに秘めているのではないか。
そんなことを感じてしまうのだ。