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思考力が未熟な病児のプライバシーについて

現代において、SNSやYouTube等、誰でも手軽に発信できるツールはどんどん増えていきます。

子供たちの可愛い動画や写真、日記等、色んなことを発信する親御さんもたくさん見られます。

見ちゃいますよね、可愛いし🥰
私も幸せを分けてもらった気持ちになります。

でも、同時に少し怖くも思うのです。


その子が中学生、高校生になったとき、不特定多数に自分の幼少期が知られているという状況は、時として恐ろしく、恥ずかしいことにはなりかねないでしょうか。



病気であることの発信も、もちろん同じ病気の先輩方からの経験を教えてもらえたり、同じ病気の人たちで共感し合えたり、辛い時の励みになったりと、とても素晴らしいメリットはたくさんあります。


でも、親御さんが発信した子どものお顔やお名前、病院名、病状が子ども自身の意志と関係なく、もしかしたらこれから出会う誰かに知られてしまうかもしれない。


それは果たして本人にとって嬉しいことでしょうか。

病気は隠すことではありません。
でも、病名から病状、赤ちゃんの頃からの経過等、知人に事細かに知られているという状況には、私は少し恐怖を覚えます。
なのでお顔やお名前など、大事な個人情報は、隠してあげてほしいな、と思うのです😌
そして本人の思考力が成熟し、様々なリスクを知った上で自分の意思で周囲や世間に公開しようと決めた時、お顔や名前を含め、どれだけ情報を公開するかを、本人に決めさせてあげてほしいな、と。

ここから私のお話です。(長いです笑)

病気であること、障害者手帳を持っていること。 

それらは人に言ってはいけない、知られてはいけない秘密なのだと、私は長年思っていました。


そのきっかけは、母です。


幼い頃、友達に病気があることを話したと言えば、『いつ!誰に!どんなふうに!なんで話したの!』と問い詰められ、

障害者手帳をいつもの施設でいつも通り使おうとすると、『友達がいる時は使わなくていいから!』と止められ、

私って障害者なの?と聞くと、『違うよ!そうじゃないからね!そんなわけないじゃん!』と否定され、

そのような経験から、私は皆んなと違うから、ママは皆んなに知られたくないんだ、と思うようになりました。

悲しかったのと、ごめん、という感情から、病気を明かすことは滅多になかった幼少期。

でも、中学、高校に上がるにつれて様々なことを学び、知識を得、

『病気で何が悪い』

『障害者であることは間違いないし恥じることでもない』

『むしろ病気や障害を持つ人が身近にいることを知ってもらうべきだ』

と思うようになります。


と同時に、
障害者に偏見があるのか、

なぜ隠そうとしてたんだ、

と母へのもやもやを抱き、長いこと温めてしまいました。

そして大学2年生、夏。

現代の医療の方針や世間の反応等への疑問を母と話していたとき、思い切って長年のもやもやを吐き出してみました。



母が障害という言葉を純粋に受け入れることができなかったのは事実かもしれません。

でも、ほとんど私の解釈違い。大間違い。

病気であると人に伝えること、障害者であることを公開すること、それを是とするか否か。

それが私の知識と理解がしっかり定着し、考えが自律してから私の確固たる意志で選択できるように、私を守ろうとしてくれていたようです。


誰かに話すと意図しない大勢に広まることや、好奇の目で見られること、噂されること、不要な特別扱いを受ける可能性があること、

小学校低学年の私には考えが及ばないだろうから、その可能性を理解するまで、周りには言わないという方針。

その可能性をわかって、それでもいいと思えるなら、私の思うようにすれば良いという考え方でした。


もっと早く話せばよかった。

ずっと、本当にずっと、もやもやが溜まって、
悲しさも憤りも長いこと腹の中で勝手に膨らませてしまっていた。

誤解してごめん、と今は思います。



私の意思を尊重してくれたこと、
本当に感謝します。
もやもやが晴れて嬉しかった。
母の前で泣くまいとするのに必死でした笑


よくよく聞いてみたら、私が最初に書いた病児の個人情報についての私の考え方と、ぴったり一致の意見だったんですよね。
なぜそこに気づかなかったんでしょうね、私。

ここまでが私のお話です。
この夏の話をしたかっただけなのですが、
せっかくだからと冒頭にずっと考えていたことをばーんと載せてしまいました笑
(こっちがオプション笑)


考え方は人それぞれですからね、
私と母が絶対に正しいとは思いません。
こんな考えの人もいるってこと、誰かに届いてくれたら嬉しいです。☺️


ここまで読んでくれた方がいたら、大感謝です。
ありがとうございました✨🌷

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