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橋とアイドル⑥ ~橋とアイドル~

6.橋とアイドル


 橋の撤去を議題にした地元説明が開催されてから五年が経過した。その頃、私にはある程度の金銭的余裕ができていた。私は思い切って、工事費の一部を負担するので例の橋の補修工事をしてくれないかと村に申し入れることにした。

 村役場の土木課の方針としては、例の橋は撤去すると半ば決まっていたようだ。後は地元住民を説得して橋梁撤去の方針を追認してもらうだけ、そんな方向で調整しようと考えていたらしい。だから私の提案は完全に想定外だったようだ。まぁ普通に考えて、一個人が橋の補修費を提供すると申し出るなど異例中の異例だろう。とはいえ、村の出身者としてそれなりに名が知れた私からの申し出をむげに断ることはできなかったらしく、村役場の職員は丁寧な対応をしてくれた。
 設計業者を使って概算の工事費を算出した結果、補修工事にはやはり約三千万円の費用が必要だとわかった。流石にその全額を私一人で寄付するのは難しい。だが費用の半分ほどを提供できれば、残りは村でなんとかしてくれるのではないか? 私はそう楽観視していたが、残念ながらその考えは甘かった。
 対応してくれた村の職員は申し訳なさそうに言った。
 
「ここ数年、村の財政状況は悪化する一方なんですよ。今後も好転する見込みはないし、半分の費用であっても予定外の工事に対して予算を確保するのは難しいのが現状です。せっかく寄付を申し出ていただいたのに申し訳ありません」
 
 補修費用の半分すら出せないなんて……。どんだけ貧乏なのよ、この村。

「でも、撤去工事だって費用がかかりますよね? 撤去の予算を補修に回すわけにはいかないんですか?」
「撤去工事には優先的に国からの補助金が出るんです。国の方針としては老齢橋はなるべく早く引退させて、補修費用の投入は新しい橋に集中するよう促したい。そんなことのようです。ですから、村としてもあの橋に補修費を投じるのことは難しいのです」
「そうですか……」
 
 うなだれる私に追い打ちをかけるように職員がボソリと呟いた。
「ウチの村はふるさと納税でも負け組ですしね。村の未来は暗いですよ」
 
 このまま役場でごねても状況は変わらないだろう。私は仕方なく、一旦家に帰って方策を練り直すことにした。
 
 役場から家へ帰る途中、私は職員が発した言葉を繰り返した。
「村の未来は暗い。ふるさと納税でも負け組……」
 地域経済が衰退する村の財政は悪化して貧乏になる。そうなればインフラへの投資はできなくなり、それによって村民の生活利便性は低下する。となれば村の人口減少が加速するのは自明で、それは更なる地域経済の衰退につながる。典型的な悪循環だ。だが、田舎が皆一様に貧乏になっているかというとそうでもない。ふるさと納税を巧みに利用して財政状況を好転させている市町村もある。この村にはそれがない。魅力的な返礼品もないし、返礼品を戦略的に作り出して税を獲得できる人材もいない。
 
 私はスマホで検索してみた。入力したキーワードは『ふるさと納税 橋』。橋ってなんだよ? とセルフツッコミしながら『検索』ボタンを押すと、意外なことに橋の改修工事を集めるためにふるさと納税を活用した事例がたくさん出てきた。あるんだ。橋を改修するためにふるさと納税を募るという手法が。
 私は自身のSNSでその旨を呟いてみた。すると多くのファンから反応があった。助言だけのものあれば、支援を申し出るものもあった。私はそれらの意見を吟味するとともに、村役場の担当職員とも連絡をとりあって各所との調整を進めた。その結果、最終的にはふるさと納税型クラウド・ファウンディングという手法により橋梁補修工事の費用を募ることになった。村役場の担当者は「なんの変哲もない橋の補修にお金が集まりますかね?」と懐疑的だったが、私には絶対イケるという自信があった。寄付をしてくれた人を開通式に招待する。その開通式には私もボランティアで参加してイベントを行う。それがクラウド・ファウンディングの返礼品だ。私がボランティアでイベントに参加することを事務所が快諾してくれおかげで、後はクラウド・ファウンディングの開始を待つだけとなった。
 
 クラウド・ファウンディングが開始されてからわずか三日で、目標金額の千五百万円に到達した。寄付募集期間の三十日間の間に順調に寄付額は増え続け、最終的には五千万円を超えた。仲介サイトに支払う一割の手数料を除いても十分な額だ。村役場の職員はその結果に驚いていたが、「これなら補修工事だけじゃなくて、地震への対応力を高める耐震補強もできるかもしれませんね」との有益な助言をくれた。
 
 クラウド・ファウンディングから半年後。橋の工事は実施された。
 工事の内容は、一連の補修+耐震補強だ。地震時の落橋を防止する装置が設置され、橋脚をコンクリートで巻き立てる補強工事が行われた。それらの工事によって以前のスッキリしたシルエットは失われてしまったけれど、補強によって私たちの橋が逞しくなったようにも見えた。少しぐらい姿が変わっても私たちがこの橋のファンであることには変わりはない。SNS上では「さほど利用されてない橋に五千万円も投じるなんてバカじゃね?」という意見もあったが、私は愛着がある橋が撤去されずに済んだことが嬉しかった。おそらく住民の多くも同じように感じていただろう。
 開通式のイベントは盛況だった。私のファンと地元に住む橋のファンが入り混じりながら交流し、かつて、私が子供の頃に開催されていた村の夏祭りのような盛り上がりを見せた。昔から愛着のあった橋の上で自分がアイドルとしてイベントを行えるなんて思いもよらなかった。その日は私のアイドル人生で一番素敵な日になった。
 
 ***

 補修・補強工事の完成からわずか三カ月後、村を強い地震が襲った。
 震源が浅い直下型地震で、気象庁はその強さを「震度7」と発表した。

 私はそのとき東京にいた。その地震の揺れは東京まで届き、うねるような大きな揺れが長く続いた。たぶんどこかで大きな地震が起きている、そう思った私は、大きな被害がありませんようにと祈りながらテレビの電源をオンにした。そして、私は巨大地震の震源地が自分の実家の村であることを知った。

 私の実家の村は、海から離れた山間部に位置する。海岸部のプレート型地震に襲われるリスクは少ないとされていた地域だったので、緊急輸送路の整備や耐震補強工事は進んでおらず、地震に対する備えがぜい弱だった。そのため、「震度7」の地震は、地域の道路網をズタズタに分断した。各地で法面が崩壊して道が塞がれた。多くの橋梁が落橋して通行不可能となった。
 国土交通省や県は、その村の孤立集落化を覚悟したが、私達の出資で補強工事を行った橋はびくともしなかった。その橋が落ちなかったことで、道路ネットワークは分断を免れた。
 
 多くの人がその橋を使って避難した。多くの物資がその橋を使って運び込まれた。結果として、その橋は多くの人の命を救った。

 その橋は、架設後八十五年を経過した高齢橋でありながら震度7の地震に耐えたことで『奇跡の橋』と呼ばれた。橋は復興のシンボルとなり、多くの人の物理的・精神的な支えになった。
 『鈴木エリ』も負けずに頑張った。
 『鈴木エリ』は被災地の人を励ますために地元にとどまり、様々なイベントをボランティアで行った。国民的アイドルがずっと近くで励ましてくれることは、その地域の人の大きな力になった。『鈴木エリ』の被災地での活動は五年ほど続いた。
 
 私は三回目の遺伝子リプログラミングのために貯めていたお金を全額被災地に寄付することに決めた。遺伝子リプログラミングは万能の技術ではない。三十歳相当までの肉体であれば完全に昔のような若さに戻すことができるが、その年齢を超えてしまうと修復不可能な遺伝子損傷が体内に蓄積して完全に元の状態まで戻すことはできなくなる。
 今の私の実年齢は五十一歳、肉体年齢は三十一歳だ。今を逃すと十代の頃のような姿には二度と戻れなくなる。だが、私はもはや十代の若さを手に入れたいとは思わなかった。

 ***
 
 大震災から十年の年月が経過した。
 この十年間、実家がある村の経済は疲弊し続けた。
 税収が入らなくなった村の財政は逼迫し、震災で破壊されたインフラを再び整備する余裕はなかった。以前から不便だった村の生活は更に不便になり、多くの人が村から離れて行った。
 例の橋を渡る人はほとんどいなくなり、今度こそ例の橋は撤去されることに決まった。私は震災から十年の追悼イベントに参加するために地元に戻った時に橋の撤去が決定したことを知った。近々通行止めになり、その後は歩行者であっても橋の上を通ることができなくなるらしい。
 
 私は最後に橋の上を歩いてみることにした。対岸に渡ることが目的じゃないから亀のような歩みで噛み締めるように歩いた。
 
「この景色はもう見られなくなるんだね」

 橋の中央から高欄越しに川の上流を眺める。キラキラと光る水面が上流から近づく。そして、橋の下を通過して下流へと流れ去っていく。同じことが延々と繰り返されるのを見て、私は時間の流れが可視化されているような気がした。この橋が架けられてから約百年、この橋はこの場所にどっしり構えて時間の流れを見続けてきたのだろう。
 橋がなくなるのは寂しい。だが私は、もはやこの橋の撤去に反対しようとは思わなかった。それは諦めではない。むしろ満足感に近い感情だった。

「お疲れさまでした。百年間、私たちの村を守ってきてくれてありがとうね」
 そういって私は橋を後にした。
 私は橋の撤去工事が始まるその日に、芸能界を引退した。

 ***

『鈴木エリ』が芸能界を引退して三年ほど経った頃、政府は『鈴木エリ』に国民栄誉賞を与えることに決めた。歌手や女優の受賞は過去にもあったが、アイドルが受賞したことは過去に例がなかった。だが、国民の多くはそれを当然のことと受け止めた。
 それほどに『鈴木エリ』の名前は日本国民の間に浸透していた。
 『鈴木エリ』が写った画像や映像は、街の中でも家の中でも、どこでも目にすることができた。もはや日本の風景の一部といってもいいほどだ。そして、人々はメディアの中でエリの姿を見るとポジティブな気持ちになった。国民の誰もが、『鈴木エリ』が努力を欠かさないアイドルであったことや被災地で地道な活動をしてきたことを知っていたからだ。
 『鈴木エリ』は今や、努力と献身の象徴だった。
 
 ***
 
 国民栄誉賞受賞の一報を聞いた時、私は博物館の中にいた。最近の私は毎月のようにその博物館に足を運んでいた。その博物館は都内に最近できたもので、名前を『橋の博物館』といった。
 そこには例の橋が保存展示されていた。
 橋梁を下で支える下部構造はさすがに保存することは難しかったようだが、上部構造はほぼ完全に保存されていた。
 この橋は特に歴史的な価値があるものではない。言ってみれば日本中に存在する、ごく平凡な橋だ。だが、丁寧なメンテナンスによって長きに渡り機能を維持した橋として、橋梁の維持管理方法を学ぶための教材的価値があると認められていた。そしてもちろん、震災後に人々を救った奇跡の橋として一種の偶像的価値を持っていることは誰しもが認めるところだった。
 保存された橋は橋面を歩けるようになっていた。私はここに来た時にはいつもその上を歩いた。橋の中央まで進み、高欄にもたれかかって橋の外側を向く。もちろん、そこに見えるのは単なる博物館の床と壁と天井だけだ。だが、古い鋼製高欄の冷たさに腕が触れると、私の脳裏には川の水面がきらめく光や、そのせせらぎの音、背景の山々などが浮かんだ。そして高欄から離れてなんの変哲もないアスファルトの上を歩けば、子供の頃にそこで遊んだ思い出や通学でそこを通った日々、開通式の日の記憶が蘇った。そして、最後には決まって橋の袂まで進んで親柱の裏を見た。
 
「私のこと見守っていてね」
 
 昔の落書きは消されてはいなかった。
 私は親柱の落書きの隣に新しい一行を刻み込んだ。
 
「いままで、私のアイドル生活を見守ってくれてありがとう。私たち、いままで頑張ったよね」
  
 国民栄誉賞授与を知らせる電話が鳴ったのはその時だった。
 想定外のことで驚いたが、徐々に冷静さを取り戻すと、その受賞を支えてくれた多くの人たちのことが頭に浮かんだ。そして私は、その受賞をいち早く伝えたい相手の上に今まさに自分が立っていることに気づいた。

「私たちの頑張りを、ちゃんと見て、認めてくれたファンがいたって嬉しいね」
 橋は何も答えない。それでも私は、
「また来るね」
 と橋に声をかけ、博物館を後にした。

(了)


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