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また心の内側に触れた

東京講習会2回目。

前回の初東京一人旅は緊張と興奮がすぎて脳疲労でたまに耳が聴こえなくなるレベルまで達したけど、今回はそこまでいかず普通に勉強を楽しめて良かった。

夕飯、お店に入ろうとして、何故か従業員用の入口から店に入ってしまい死ぬほど恥ずかしい思いをしたり、ホテルに向かう道を間違えてホテルによく似た名前の違う建物に突入しようとしたりはしたけど許容範囲である(失敗が多すぎて許容範囲がクソ広い)

前回はカウンセリングを直接受けたけれども、一回受けたからもう一回はあるまい。そして自分が受けないならこれ以上こころを引っ掻き回すこともあるまいと思っていたがそんなことはなく。

今朝は昔の記憶が夢に出てきて泣きながら目覚めた次第。

最近は過去のフラッシュバックはなかったのに、久々である。
チクショウ、色々ほぐしてスッキリしてたのに、また隠してたとこ開けたな。

家族関連のことは恐らく大分スッキリしたんだと思う。まぁそこがスッキリした故に『それはそれとしてこっちもしんどかったよね?』って、家族の悩みの小脇からもう一つ心が傷を引っ張り出してきた。
ちょっと遠慮なくなってきたな、心。

今回「人前で話そうとすると緊張しちゃう」話題が出てきたのだけど、私は、昔からやたら緊張しいで、発表の場になると心臓バクバク、手が震え、身体も震え、頭の中は真っ白に吹き飛び、原稿があっても文字すら認識できなくなり、それが極まると泣くという体質である。

緊張で泣くとかそんな体質あるかい、と思うのだが、マジで泣く。

特に、端っこから順番に発表してください的なやつはヤバい。1番手ならよいのだが、順番待ってる間にドンドン震えが激しくなって、どうしようもなくなる。

つまり、よくある『自己紹介』で泣く。
聞く側に取ってみれば自己紹介で泣かれるなんて意味不明である。
場の空気が超絶微妙になる。

だから私は『涙は女の武器』という言葉が嫌いだ。この涙がもし武器ならば、私は通り魔である。誰彼問わず、刀を振りかざして暴れている通り魔になってしまう。
いや、でもまぁ、実際ヤバイ奴なんだという自覚は少なからずあるが。

泣いたら周りが引いちゃう…という焦りはより一層震えを増す。でもこういうのは焦った自分を否定せず、私は焦ってるんだ、緊張してるんだと自認して受け入れてあげるといいのだ。

緊張して不安な私の心がどこにいるのか手を当てて、その心に話しかける。そんなことも何度もやったが、効果は今ひとつだった。

今回の講座でも、緊張してしまうのは自意識過剰だから他者に意識を向ける…とか色んな対応についての話があったのだけど、軒並み私はそれを理解し実践もしていた。

ただひとつ、『緊張してしまう自分を面白がって笑い飛ばす』というのが出来なかった。笑えない。笑い飛ばそうとすることが恥ずかしすぎてできない。

何で笑えないかって、私が人に笑われることがとても怖いからだ。

そのことについて色々考えてたら『痛いの隠してる所ありましたよー』と心の底に隠してた箱を嬉しそうに持ってきたやつがおる。いや、それ持ってこんでええねん。

自分がだめな自分を笑い飛ばせないのは、笑われる記憶にいいものがないからだ。

昔から私はよく馬鹿にされて笑われた。
天然だよね。変わってるね。
おかしいんじゃない?

私は至って普通に話しているつもりなのに、その普通が笑われる。
変なことを言うやつだとイジられキャラになる。いじりに反発すると何故か相手が傷付いたと泣く。もしくは怒り出す。

仕方がないから笑われる事を受け入れる。
いっそとことんピエロになればいいのかと、面白いことを言おうとすればスベる。

つまり、狙ってないときほど笑いを取れて、狙えば周りは引く。
いつも世界は私の想定からズレている。

私の普通は、昔から、誰かに笑われて、誰かを泣かせて、怒らせるものだった。
何でそうなるのかわからない。和やかに話したいのに、私の発言は場の空気をいつも壊す。 

こっちの言葉は笑われないか?
こっちの言葉は誰かを怒らせないか?
場の空気を壊さないか?

そうやっていつも私はビクビクしている。
だから多分こわいのだ。どうしようもなく不安なのだ。

でも、誰かに気持ちをわかってほしい思いは人一倍強い。これが人一倍強いのも、多分こういう経験が土台にある。

気持ちをわかって欲しくてそれを伝えようとして、それが嫌な結果になることがあまりに多すぎた。
それで口をつぐんで言わずにいたら、聞いて欲しい気持ちは膨れ上がる。

だから私はそれを漫画にしたり、noteで書いたり、voicyで話したりする。
日常で否定されたり笑われたり、場の空気を壊し続けたそれは、何故か電波を通すと沢山の人に受け入れられる。
不思議だ。

受け入れてもらえる喜びから、私は今まで聞いてもらえなかったことばを発信する。ここでは何故か受け入れてもらえる。うれしい。でもたまにキレる人や傷付く人に触れる。また、ごめんなさい、とおもう。

自閉症は『自ら閉じる』と書くが、私の場合、別に好き好んで閉じているわけではない。閉じざるを得ないだけだ。
迂闊に開ければ通り魔になることを私はよくわかっている。

誰かを斬りつければその痛みに共感して痛い。自分で斬ったくせに。
空気を読めないと言われるが、感情を読み取る力だけはやたらあって、相手が嫌な気持ちになっただろうとかそういうことにはやたらと敏感だ。

やらかしてもそのやらかしに気が付かない鈍感さがあればもっと図太く生きられようものだが、しっかりやらかしたことには気づいてしまう。

感情変化に気がついて
「なんか機嫌悪い?何かあった?」
と、問うと

「アンタがさっき言ったあの言葉で嫌な思いしたんだよ!!気付けよ!!」

…と、怒鳴り返されたことも何度かある。 
だから私は不機嫌な人が怖い。
全てがそうではないことも頭でわかっていても、その不機嫌の原因がすべて私のような気持ちになってしまう。

もう、これが私の生きづらさだ。

とはいえ、数年前に診断がついて、ASDはそういうことがあるのもわかってきた。
つまりコレが私らしさなんだからそれでいいやと受け入れられるようになってきた。

発信という場で、私のことばに共感してくれる人と繋がりながらそれを仕事にする分には結構自分自身を楽しめるようになった。

だから、その箱は隠してたんだって。
もういいの。それは開けなくていいの。

今朝見た夢は、私がなにか言った時に周りが一斉に笑う記憶。
怒られたり泣かれたりした記憶。

「天然だよね」
「いや、それ、フツー言わないっしょ」
「変わってるよね」
「え、ちょっと怖い」

何がだよ。コレが私の普通なんだよ。

私の普通は、どこか周りとズレている。

ズレていることだけはわかっている。

自分が変だという自覚だけがある。

変でもいいと開き直る自分もいるけど、その変な部分が通り魔的に誰かの心を斬りつける。

こうやって言葉にして思った。
これはいわゆる【ハリネズミのジレンマ】である。寒くなれば仲間と身を寄せたいが、身を寄せればその針によって自分も周りも傷付ける。

傷付けるのが怖い。
傷付くのが怖い。

だから私は、人前で何かを発言することが怖いのだ。だからどうしようもなく震えてしまうのだ。

笑われることで傷付いてきたから、笑い飛ばすことができない。

でもこれを自覚したから何になるのか。
自分は自分である。
あなたの言葉で傷ついたとか腹が立ったとか変だと思ったとか言われても、そのときそのときで言葉は違う。
そんなの、意識して変えられるものなんかじゃない。
その自分を「変だと感じる」周りの価値観も別に否定する気はない。

一部の「なんか変なそんなアンタが好きさ」と言ってくれる変わり者とだけ密に付き合って(筆頭・夫)、あとは発信という場で私の発言を好んで受け入れてくれる人に向けてだけ自分を開いて、現実世界では極力閉じて過ごすのがいいのだと思っていた。

でも、どんな人相手でも和やかに話せる自分にも憧れるし、人前で堂々と話せる自分でありたい気持ちもある。

なんで出してきた、これ。
もー。どーすんのよ…と、朝から途方に暮れている。

講習会会場からホテルに向かう道で、桑の葉、ドクダミの葉、萩の葉、椿の葉を摘んだ。

私がここ半年で急激に植物の世界にハマっていってるのは、植物はどんな世界も受け入れてくれるからのような気がする。

桑の葉と萩の葉とドクダミの葉でフレッシュハーブティーをつくった。

疲れを取るドクダミ。
女性ホルモンを穏やかにする萩。
リラックス効果のある桑。

最強のハーブティーだ。

相変わらず生のドクダミ茶の香りは強烈だが、桑と萩の力でだいぶ優しくなった。

さて、泣きながら起きてしまって小一時間かけてこの記事を書いた。
これから金木犀を探しに行くよ。

植物を見ているときが一番楽だ。
何も難しく考えなくていい。

あれこれ考えられることは幸せなことなのか。人間は、脳が発達してよかったのだろうか。

ただ本能のままに、あれこれ深く考えず生きられる方がきっと楽なのにな。

昨日の夜とったvoicy。
このあと眠って、フラッシュバックするのである。

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水谷アス
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