好きの比重
“ファン”というものをやっている
誰もが持っているであろう“好き”の感情。
大人になってからは特に
好きのバランスを取ることの難しさに気付いた。
ファンも多種多様でいろんな考えの人がいるので
病みがちな人もよく見るが、
わたしの周りにはバランスよく理想的な推し方をしている人が多いと思う。
そんな中で
これはあくまでわたしの場合の話だが、
ファンになってからすぐは
なにをしていてもどんなときも
推しのことしか考えられないくらい
その人が生活の中心になってしまう。
その真ん中にあるのは“知りたい”という興味感情。
今までに知らなかった彼や彼らの歴史を
必死で追い掛ける。
曲はもちろんのこと
どんなふうに支え合い
どんなふうにここまで来たのか?
それぞれの人間関係はどうなのか?
どんなときにどんな言葉を放ったのか?
ファンとなにを乗り越えてきたのか?
過去を夢中で追いかける。
何をしていてもかっこいいし、
何をしていてもかわいい。
何をしていても愛しい全肯定のターンが必ず来る。
そうこうしているとそのあと何が起きるか?
不思議なことに
“ものすごくその人を知ったような気になる”
“自分がその人の理解者になったような気持ちになる”のだ。
自分で自分をコントロールするべく
ここで気を付けていることがある。
【自分がファンでなかった時代のエピソードを
あたかもその時見てきたように語らないこと】
【推しの感情や気持ちを勝手に想像で語らないこと】
ここが崩れると
推し本人と
自分の理想の中の推しに
差が出て耐えられなくなる。
アーティスト本人を
勝手に理想化しすぎてしまうのだ。
支えにするのはいい。
楽しみにするのもいい。
生きがいにするのもいい。
でも、どれだけ映像をみても
どれだけお金を積んでも
どれだけその人のことを想っても
どれだけ知っているつもりでいても
アーティスト側が心の全て語るわけはないし
メンバーですら言えないことがあるであろう中、
いちファンがそれを分かるわけもないのだ。
そこの線引きだけは崩さないようにしている。
言葉にすると当たり前のように感じるが
SNSで共有するモノが増えた今、
推しとの距離がより近くなり
ここを拗らせないようにするのは
結構難しいように思う。
情報のおかげで
10倍にも20倍にもしあわせな気持ちが膨らむ分
情報のせいで
10倍も20倍も勝手に想像して傷付くのだ。
だからわたしは何かあると度々自分を外から見る。
そして思い出す松浦亜弥ちゃんの名言がある💭笑
12年前、まだGLAYだけを追いかけていた頃
推しに全てを捧げてしまいがちな
この性格にズコーンと刺さった言葉だった。
そんなこんなを経て
わたしなりの好き、
わたしなりの推し方をみつけたので
今とても安定したファン生活をしていると思う💭
理性的でつまらないように見えるかもしれないが
自分には今がいちばんいい好きの比重だったりする。