さりげない普段の会話が、そのまま詩の言葉になっていた人を、私は河村悟のほかに知らない。
文芸業界に身を置く私は、いろんなプロの書き手に接する機会も多いが、それでも河村さんのような人にはいまだに会ったことがないし、この先も会えないだろう。
詩人、河村悟は、今年2月2日の早朝に地上を去った。私は河村さんと27年の付き合いがあったが、私の記憶する河村さんは、聴衆の前で話すとき「詩人の河村です」とは名乗らずに、低い声で「河村です」とだけ名乗った。今では私もそれに倣い、講演やスピーチの挨拶では作家の肩書きを口にしないようにしている。
詩人つまり詩を書く人、という枠のなかに限定的に定義されるのを、河村さん自身はあまり好ましく思っていない向きがあった。河村さんにとっての〈詩〉は、書店に並ぶ詩集に閉じ込められる言葉のみではなく、塵(ちり)のように宇宙を漂うイメージや情動の〈流れ(フロー)〉に宿るもので、みずからも転々と拠点を移しながら、俳句、舞踏論、絵画、ポラロイド作品(現像した写真ではなくフィルム自体に加工したもの)、自身の考案した迷宮舞踏の振り付けなど、詩作にとどまらず驚くほど多様な作品を残している。
どの作品も魅力的だが、なかでも1990年代後半から様々な場所で観客を入れて行われた〈ポエトリー・リーディング〉の印象は忘れがたい。
はじめてライブで河村さんの朗読を聞いた夜、私はただ圧倒されるばかりで、身動きできなかった。
暗闇に近い幽(かす)かな照明のもと、丸鍔(つば)のハットに長髪、高い鼻に丸眼鏡をかけ、黒いコートを着た詩人が、低いささやき声で詩を読みはじめ、ふいに壊れた歯車のように行き詰まり、かと思えば、突然亡霊に憑依されたかのごとく、喉もちぎれんばかりに叫ぶ。
読み終えた原稿を次々と放り捨ててゆく河村さんの周りに、雷鳴と吹雪と深淵を垣間見たのは私だけではないはずだ。河村悟が詩を朗読するとき、そこには友人たちと毎晩のように楽しく語り明かした河村悟とはまったく別の誰かが現れた。
一語一語に命を賭したような、人々が詩の朗読と聞いて頭に浮かべるものとはどこまでも異質な、ディオニュソスの秘儀のようなあの朗読。
言葉から意味を剝脱することで、言葉になりきれなかった言葉が闇からよみがえり、ついには名もなき肉体の叫びが、詩人の〈声〉と重なって私たちの前につかのま出現する。
河村さんによる詩の作業、その核心は、世界から隠されてしまったものたちを呼びだすことにあり、それは世間的な文筆業や、出版界や、あるいは詩人という枠さえも超越した宇宙的な喪の作業だった。
19歳で河村さんに出会った私は、その後に作家となったわけだが、自分も詩人になろうとは一度も思わなかった。なぜなら、なれると思わなかったからだ。河村さんを一目見た瞬間にわかった。こういう人が詩人なのであれば、自分はけっして詩人にはなれない。それくらいに河村悟は強烈で、すばらしかった。
原稿を収めたトランクを運ぶその姿、その歩みのすべてが詩だった。まるで亡命者のような足取りで旅をし、友人たちのもとで作業をした。最初に私が出会ったのは九州の福岡だったし、渋谷の街で偶然に顔を合わせた記憶もあれば、京都にいるという風の噂を耳にした時代もある。
著書『純粋思考物体』に河村さんはこう書いた。「詩人は大地を踏まない足をもっている」と。元々詩人は、この地上の住人ではなかったのかもしれない。だとしたら、かりそめの大地への滞在を終えた今、新たな友人を訪ねる旅路に就いたのだろう。
それじゃあ河村さん、いつか旅先でお会いしましょう。また僕がトランクを持ちますよ。
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さとう・きわむ 1977年、福岡市生まれ。2016年、「QJKJQ」で第62回江戸川乱歩賞。18年、『Ank: a mirroring ape』で第20回大藪春彦賞、第39回吉川英治文学新人賞。21年、『テスカトリポカ』で第34回山本周五郎賞、第165回直木賞。22年には河村さんの著書『純粋思考物体』刊行を企画・プロデュースした。東京都在住。
※河村悟さんは2月2日、東京都内の自宅で死去、74歳。八戸市出身。