九州の空白県に出現した、小さな港町を出自とするJクラブ〜フットボールの白地図【第42回】宮崎県
<宮崎県>
・総面積 約7735平方km
・総人口 約106万人
・都道府県庁所在地 宮崎市
・隣接する都道府県 大分県、熊本県、鹿児島県
・主なサッカークラブ テゲバジャーロ宮崎、ホンダロックSC、ヴェロスクロノス都農
・主な出身サッカー選手 戸田光洋、戸田賢良、倉石圭二、中山悟志、水永翔馬、増田誓志、伊野波雅彦、興梠慎三
「47都道府県のフットボールのある風景」の写真集(タイトル未定)のエスキース版として始まった当プロジェクト。前回は、中国地方で唯一のJクラブ空白県となっている、島根県を取り上げた。今回は、昨シーズンまで九州唯一の空白県だった、宮崎県にフォーカスする。ご存じのとおり、今季から「テゲバジャーロ宮崎」がJ3に参戦。本稿執筆時点で4位の好位置につけている。
宮崎県といえば、気候が温暖で食べ物も美味しく、高千穂神社をはじめとするパワースポット系の観光地も多い。宮崎にJクラブができたことで、観光とセットでJリーグ観戦を楽しめるようになったのは、われわれファンとしては非常にありがたい話ではある。ではなぜ宮崎県は、ずっとJクラブの空白県であり続けてきたのか? むしろ、そちらの方が気になるところだ。
サッカーが盛んでなかったわけではない。高校サッカーでいえば、日章学園や鵬翔高校が有名で、後者は全国制覇を達成。日本代表クラスのJリーガーも、何人か輩出している。そうした土壌がありながら、なかなかJを目指すクラブが出てこなかったのは、単純な話、県民がそれを欲してこなかったことに尽きる。どういうことか? さっそくJR宮崎駅前から、今回の旅を始めることにしよう。
宮崎県のパブリックイメージといえば、昭和の時代ならば新婚旅行、そして今ならキャンプ地であろう。近年は多くのJクラブも宮崎で始動するようになり、宮崎駅近くにある「スポーツプラザ宮崎」では、それを感じさせるユニフォームが展示されている。こうしたキャンプ地の伝統ゆえに、当地では「スポーツはタダで見るもの」という認識が固定化され、それがプロスポーツ文化が地元に根付かない大きな要因にもなったとされる。
そんな宮崎にあって、テゲバ以前から全国リーグを戦い続けてきたのが、JFLに所属する「ホンダロックSC」である。本田技研の100%子会社のキーロックメーカーとして、株式会社ホンダロックが宮崎の地に創業したのが1962年。わずか2年後には、社内福利厚生を目的としてサッカー部が誕生している。2005年にJFLに昇格するも、わずか2シーズンで九州リーグに出戻り。再昇格した09年以降は、ずっとアマチュア最高峰のポジションをキープしている。
テゲバ以前にも、Jリーグを目指す試みが県内になかったわけではない。しかし、見通しの甘いクラブ作りが仇となって挫折。2000年代を通して「宮崎にプロクラブを」という機運が生まれることはなかった。そんな中、県北の門川町を出自とするMSU(宮崎スポーツマンユナイテッド)FCというクラブが、09年に宮崎市に移転。15年にクラブ名をテゲバジャーロ宮崎と改め、18年にはJFL昇格を果たす。そして同年には初めて、宮崎県で全国リーグのダービーが実現した。
その宮崎ダービーも3シーズンで終了し、いよいよ21年から県内初のJクラブとなったテゲバ。そのホームスタジアムが建設されたのが、宮崎県児湯郡新富町である。当地には航空自衛隊の新田原基地があり、訓練中の凄まじい爆音には誰もが度肝を抜かれるはずだ。防衛省からは自治体に対して補助金が下り、その一部が当地のフットボールパーク建設費用に充てられたという。最寄り駅の日向新富駅には、T-33シューティングスター練習機が展示してある。
私が新富町を訪れたのは19年の5月のことで、当時はご覧のとおり建設予定地の状態だった。現在の「ユニリーバスタジアム新富」は5000人収容だが、今後はカテゴリーが上がるのに合わせて拡張工事を行い、最終的にはJ1基準の1万5000人以上収容までを想定している。建設費用はクラブ側が調達して、完成後に新富町に寄付。公共施設として、クラブと自治体が共同で運営・管理していく。県のサッカー協会も移転すれば、フットボールパークは完成だ。
最後に、テゲバ発祥の地を探訪することにしたい。JR宮崎駅から日豊本線で1時間半かけて北上し、県北の門川町を目指す。途中、昭和の新婚さんたちが眺めたであろう、美しい海岸線に癒やされた。テゲバの源流をたどると、1965年に創設された「門川クラブ」という少年団に行き着く。実はテゲバのスタッフや選手の中にも、門川町の出身者が少なくない。とはいえ、もともとサッカーが盛んな地域だった、というわけでもないそうだ。
門川町は、国の天然記念物であるカンムリウミスズメの繁殖地として有名で、当地のゆるキャラにもなっている。日向灘に面し、漁業と水産加工業が盛んな人口2万人足らずの小さな町。そこで活動していた少年団が、半世紀の歴史を刻みながらJリーグに到達する。実にロマンのある話ではないか。しかし現在の門川町で、テゲバの痕跡を見つけることは難しい。宮崎県初のJクラブが将来、輝かしい栄光を手にした暁には、ぜひ当地に記念のモニュメントを建立してほしいものだ。
宮崎県もまた、ご当地グルメには事欠かない。地鶏の炭火焼き、チキン南蛮、冷や汁などが有名。しかし今回は、門川町の「一六八(いろは)会館」でいただいた、こちらの刺身定食を紹介したい。取材当時、テゲバを指揮していた倉石圭二監督のご実家で、門川クラブがMSU FCと名称変更した時、最初にスポンサーになってくれたお店でもある。港町ゆえに刺し身は当然として、麺が細い地元のうどんも美味だった。この刺身定食は、事前予約が必要であることを付記しておく。
<第43回につづく>
宇都宮徹壱(うつのみや・てついち)
写真家・ノンフィクションライター。
1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年に「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追い続ける取材活動を展開中。FIFAワールドカップ取材は98年フランス大会から、全国地域リーグ決勝大会(現地域CL)取材は2005年大会から継続中。
2016年7月より『宇都宮徹壱ウェブマガジン』の配信を開始。
著書多数。『フットボールの犬 欧羅巴1999‐2009』で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』でサッカー本大賞2017を受賞。近著『フットボール風土記 Jクラブが「ある土地」と「ない土地」の物語』。
2021年2月より、Jリーグ以外の第1種クラブの当事者のためのコミュニティ『ハフコミ(ハーフウェイオンラインコミュニティ)』を開設。