男尊女卑
夏目漱石の好きな人は読まないでください。夏目作品に対する偏見、短見、誤解、誹謗中傷だらけの文です。
『漱石の思ひ出』を読んでゐると、嫌ひな夏目漱石がますます嫌ひになる。妻に対する横暴が目に余る。
夏目夫妻は相思相愛だったのだが、それはひとへに、妻の鏡子さんが漱石の母となって尽くしたからだ。
いつの時代も、男が女に求めるのは身体の向かふにあるはずの「母」の幻影である。漱石の横暴は、いまさら子供にもどって甘えることのできない男の癇癪の爆発だ。
マザコン息子といふ言葉もない時代、鏡子さんは無理難題に耐えながら、男の望む「何をいっても自分を見捨てない母」にならうとした。それが明治の女性の愛し方だったのだと思ふ。
夏目漱石は日本の近代化の悲劇に気づいたが、なんせ思想的には中二より深く考へることができない人なので(何様だ、この上から目線^^)、低回趣味とかいふところで自転して終はった。
時代の価値観と真正面からぶつかって砕けてしまふやうな作家が好きなわたしは、夏目漱石といへば出て来る「漱石山房で火鉢に手をかざす文豪漱石」の姿が、歯がゆい。この人が大正教養主義の知識人を生み出したんだなと思ふと、すこし腹も立つ。
夏目漱石の文学的価値は言葉づかひだけにあると思ふ。講談や落語と同じだ。言葉の芸である。
読むのだったら『夢十夜』『永日小品』『ガラス戸の中』といった短編集だけでいい。『坊ちゃん』は、『人間失格』を乾いた空っ風(からっかぜ)の文体で描いた傑作だと思ふ。最後が太宰のやうにじめついていない分、かへって草も生えない砂漠にまで来たといふ感じが伝はってくる。
清とあの世で再会するまでは、あのまま誰とも心を通はすことのない孤独な生涯を坊ちゃんは送るのだらう。
その他の作品は、長すぎる。新聞にだらだらと連載してゐたから、なんとなく長くなったのではないだらうか。長くなると何を言ってゐるのかわからなくなってつまらなくなる。深読みが好きな人は、このわからないところがいいのかもしれない。何かすごいことを言ってゐそうに見えるからだ。
手練れの編集者がゐたらどれもこれもモチーフを洗ひ出して短編に書き換へさせたと思ふ。そして、夏目漱石短編集となってゐただらう。
わたしは七つ年上の姉が全集を買ってゐたので全部読んだ。どの作品も無駄に長かった。少年時代の貴重な時間を返してほしい。
ちなみに姉は『坊ちゃん』しか読んでないと言ってゐた。『吾輩は猫である』は途中で飽きてやめたのださうだ。
『坊ちゃん』は痛快な話だと言ってゐた。
夏目漱石は富裕層だった。その富裕層としての収入の二割は本代に充ててゐたそうで、ウィリアム・ジュームスの原書とかベルグソンの英訳とかも読んでゐるらしい。それなのに思想的な深みがまるでない。これは、太い神経が一本しかないせいだと思ふ。その神経は生涯病んでゐた。
太くても病んでゐると、繊細であるかのやうに見える。
夏目漱石の嫌ひなところは、無教育者に対する偏見(そこから生まれる全く迷ひのない蔑視)と、男尊女卑だ。
『文鳥』といふ短編では、夏目漱石が自分の横着のせいで餓死した小鳥を「十六になる小女」に向かって放り投げる場面が出て来る。お前のせいで死んだぞと言ふが、下女はうつむいたまま、すみませんともわるうございましたとも言はない。
それで夏目漱石は腹を立てて、「文鳥をお飼ひなさい」と薦めた鈴木三重吉に葉書を書く。
家人(うちのもの)が餌をやらないものだから、文鳥はたうたう死んでしまった。たのみもせふものを籠に入れて、しかも餌をやる義務さへ尽くさないは残酷の至りだ
これで終はったらただのバカだが、夏目漱石はこの短編の末尾を次の文で締めてゐる。
午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だともいっかう書いてなかった。
小鳥を飼へと薦められて応じたのは自分だ。空を飛びたい鳥を、さうとわかってゐながら、小さな籠に閉ぢ込めることにしたのは自分だ。
そして、ものめづらしさが消えた頃には世話を他人に任せて、そのことすらも忘れてゐたのも自分なのだ。
三重吉は弟子のくせに、そこを察して自分を慰めることをしない。使へぬやつである。
夏目漱石は自分を顧みる目は持ってゐた。
ただ、すぐに他人のはうに目を向ける。
だから、自殺をしようと思ったことはないやうだし、内容的に深化の無い小説をいくつも重ねて書くことができたのだらう。
男尊女卑は、学校を出てゐない人を馬鹿にする(夏目漱石的な人なら旧帝国大以外の大学だったら、学歴として語られても鼻で笑ふに違ひない)やうな人のやることだ。
時代のイデオロギーとして、女性は男性より劣ってゐると見られてゐた。
さういふ時代の価値観を疑はない人が男尊女卑になる。
明治、大正、昭和、平成と、女性はほんたうに酷い目にあってきた。
さて、反論はあると思ふが、今、日本では男尊女卑の時代は突然終はりを告げられてゐる。
もう、男が何につけても威張ることができなくなってきてゐる。
かうなると、男尊女卑がぐるっと社会の枢軸のまはりを百八十度回転する。
男尊女卑のイデオロギーを疑ふことなく女性を蔑視し女性を苦しめた男性たちは、程度の低い精神や質のわるい感性を持ってゐた。
それらの精神や感性には、性差は無いやうだ。
かつて男尊女卑が行はれたのは、次のやうな女性の事実があるからだ。
女は男に比べて腕力が弱い。
それで、たいていの男が大声を出して拳でも振り上げたら、ほとんどの女はふるへて座り込んでしまふ。
これからは、男尊女卑が回転して女尊男卑となりさうだ。
さうなるとしたら、その場合の男性の事実は次のやうなものだ。
男はどんな理由であれ女とセックスがしたい。
それで、男は女とみればセックスをしたいので、セックスができそうだと思ったら男は女の気に入りそうなことはなんでもする。
めんだうくさくなったら「押し倒してしまへばいいんだ。さうしてしまへばおれの持ち物だ」といふ時代は、男尊女卑だった。
今は逆だ。なにがあっても男性が声を荒げてはいけないし、もちろん手をあげるなどいふことをしてしまへば、PTSDで訴へられるだらうし、何より、セックスをしてもらへる可能性が失はれる。
かういふ今の時代は、男は女にかぎりなくやさしい。
そして、それをいいことに、「きみ」と言ってゐる男性に「お前」と言ったり、一方的に言葉を荒げて「ふざけんてんじゃねえよ」と怒鳴ったり、絶対に反撃してこない男性を叩いたり蹴ったりしてゐる女性は、かつて男尊女卑をしてゐた男の生まれ変はりに違ひない。
人間は性別にかかはらず互ひに礼を忘れず敬して接することが美しい。
親しき中にも礼儀ありは、たとへセックスをする間柄になっても真理である。
他にも女性が男性と一緒に飲みに行って「淫らな行為」をされたとかいふ話。
男が飲みに誘ふ時点で、女の側からの「もしかしたら私とセックスできるかもよ」といふサインを男は受信してゐるのに、事後になって「その気もないのに」無理やり淫らな行為をされたと訴へる・・・といふ展開について、女尊男卑の時代の女性の狡猾で悪質な手口として触れたかったのだが、誹謗中傷したと誰かに訴へられたら絶対に負けるのでやめときます。