乱交と平和
三島由紀夫は『終わりの美学』というエッセイの中で、人が結婚する理由を示唆している。
この世のあらゆることには終わりがある。
映画も終わる、スポーツも終わる、セックスも終わる。
人生で体験することのありとあらゆることが、生きている限り、一定の時間が来れば終わる。
けれども、人間には、一つだけでも、自分が死ぬまで「終わりなく続くもの」が必要だ。そして、そういうものは「夫婦の関係」くらいしか見当たらない。
これが、三島由紀夫の見解だ。
誰かと夫婦になると、配偶者以外とは自由にセックスができなくなる。互いの自由を認めないということだ。自由が無くなると、愛も可能になる。
愛という絆は、自らも縛る。
わたしは、オープンマリッジを否定しないが、よくわからない。オープンとマリッジを組み合わせるのは、形容矛盾であるように思える。オープンなら乱交でいいような気がするのだが、わたしはそもそも「自由な形態」というものをイメージできないので、ちゃんと調べてみようという気も起きない。
チンパンジーのオスとメスには絆というものが存在しない。
それは、セックスが乱交であるからだ。
乱交の世界は、自由にセックスができるというより、自由すら存在しない世界だ。
自由は、何か自分を縛るもの、制限するものがあって、それを押しのけようとする時に手応えとして現れる。
そして、自由になってみると、自由はどこにもない。
だから、自由が好きな人は、この日本でも、不自由、制限、束縛を探し回っている。
かつて、二十世紀の後半あたりには、性解放運動と共産主義的な理想世界を目指す人たちの出会いがあったらしい。
そして、欧米などでは、若い男女が世界平和を願って集まり、乱交したこともあったそうだ。
全共闘世代の人は、大学構内に閉じこもっていた時の、あの夜のことを思い出すかもしれない。階級も性差別も無い、解放区だったと聞いている。
なんにしても、これは、いいアイデアかもしれない。
チンパンジーから進化したピグミーチンパンジー(PC的にはボノボ)は、果実の豊富な森に局在するため、オスの戦闘集団を必要としなくなった。
争わなくても食うには困らない。これが平和への入り口である。
そして、戦争の必要のない世界、つまり、平和の中に入ってからも、残念ながら、課題はある。
内部集団というものは、外部に敵がいてこそ、内部では争わなかった。戦争がなくなれば、内部集団が分裂して争いを始める。それをどう防ぐかが問題となる。
ボノボは、これを、乱交によって争いの芽を摘むことにした。オスとメスだけでなく、同性同士も、出会えば性器をこすり合わせる。
こうすれば、争いは生じない。
口を開ければ食べ物が落ちてきて、考えることはセックスのことだけ。
平和とはそういうものである。
だから、わたしたちが平和に魅力を感じるのは、平和が無い時である。
戦争中は、誰もが(少なくとも都市部に暮らす日本人は)空襲警報の鳴らない夜を切望したと思う。けれども、平和な日が続くと、空襲警報の鳴らなくなった日本を「クソのような社会」だと言い出す人が出て来る。
それはそれとして、ボノボの達成した恒久平和を維持するために大事なのは、配偶を作らないことである。夫婦でも親友でも、ともかく互いの自由な乱交を制限する関係を作ると、嫉妬や不倫の可能性が生まれる。そして、実際、嫉妬は生まれ、不倫も起きる。
こういう社会は、わたしたちがよく知っている。
つまり、常に争いが避けられない関係を、わたしたちは選んでいるのだ。
人間の場合、世界平和をめざして若い男女が集って乱交はしたものの、すぐに、そこから、いくつものカップルが誕生してしまったらしい。
全共闘世代の人も夫婦にしろ内縁にしろカップルに納まってしまい、配偶者はお互いの不倫は問わないというくらいでお茶を濁してしまったらしい。
そんなことだから、今も世界は平和にならないのである。