他者の欲望を生きる
参政党が出てきたとき、あなたはどう思っただろうか?
神谷宗幣氏の演説を聞いて、ネトウヨのわたしは泣いた。ほんとうに涙を流した。
わたしは、「ついに日本に希望の光が見えた!」と脊髄反射した。
よっしゃあ、党員になろうと思った。
すると、党費の支払いがクレジットカードだった。カード、持ってないんです。
そこで、脊髄反射に従って党員になれずショックを受けていたら、不思議と、ハイデガーのことが頭によぎった。なんだか党員になったという記録は残さないほうがいいような気がしてきた。
ハイデガーとは面識が無いのだが、わたしに再考を促すために降りて来たのだろうか?
というのは、しばらくしてすぐ、党員にならないでよかったと思ったからだ。
いまでも、神谷宗幣氏の演説はどれを聴いても感動する。
神谷氏は現代日本のペリクレスだ。
アテネの民主制のpropagandistは、自身は民主制を超越して、希代の名演説により「指導」を続けた。
ペリクレスも神谷氏も、その才と誠、そしていわゆる「民主主義」なるものが内包する救いがたい自己撞着を体現したことにおいては、甲乙つけがたい歴史上の偉人になると思う。
それはいいのだが、その演説会場に党員が子供を連れてきており、それをボードメンバーが推奨していた。
わたしは、子供を政治集会に連れて来てはいけないと思う。
「子供のうちから政治を学ばせるべきだ」
というのが、神谷宗幣氏をはじめとする基幹党員の信念である。
政治の仕組みを学ばせるのはいいだろう。
けれども、政党の理念などは大人になってからでいいと思う。
むしろ、大人になってからにするべきだ。
理念に触れると、子供は、それを大人の顔色を見て、自分のものとしたり、あるいはやみくもに否定したりするからだ。
精神分析家は様子ぶった意味ありげな物言いをする。精神分析に中身が無いからだろう。それで、精神分析家の言葉には、切り取って覚えておいて、人に言いたいようなものがよくある。精神科医の本に出て来るのでひろってメモをしておくといいと思う。
その中に、人間の欲望は大文字の他者の欲望というものがある。
人間は他者の欲望を欲望するということらしい。
これはなかなか魅力的な言葉で、わたしは、もっとおおきくひろげて、人間とは他者の欲望を生きる存在だと言ったりしている。
ひらたく言うと簡単なことだ。
人間は他人がこうしてほしいなーと思うことを忖度して自分の言動を決める。確かにそうしている。
別に、それでいいし、それは社会生活に必要だし、日本人はこの能力が高いので、今後も忖度して同調して集団主義で生きてほしい。
これは冗談でなく、本気である。
そのことはともかく、
子供とは何か?
子供とは、親の欲望を生きる存在である。
子供は、親が何を望むかを常にモニターしており、寸分たがわず、まったく親の望み通りに生きようとしている。
ヒトの子供とはそういうふうにできているのだし、子供のときは、そうすることによっておおむねうまくいくのである。
子供は、よかれあしかれ、親の鏡。
違う角度から言うと、子供ほど、思い通りにできる存在はない。
だから、いまだに小学校の教員という〇〇〇〇い仕事に人が応募するのだ。
親がサヨクなら、サヨクになる。
親がムスリムなら、ムスリムになる。
親が〇〇〇〇なら、子供は〇〇〇〇になる。
これは公式です。覚えてください。
つまり、親であることは、気づいていようといまいと、子供を洗脳しているのである。
もちろん、ものごころがつき、親に見捨てられても食べていける年頃になれば、自分の考えを持つようになる。
けれども、洗脳の後遺症は、生涯、消えない。
この洗脳の後遺症が、その人の人格の基盤でもある。
洗脳の別名が、教育とか薫陶とかいったものになるかどうかは、親や教師の人間性にかかっている。
だから、わたしから言わせると、よく平気で異性と結婚したからという理由だけで子供を持ったり、後々の人格を形成する時期の子供の集まる教室で先生とやらになれたりするよな、えらいわ、あんたら、すごいね。と思うのである。
これは非難ではなく、賛嘆である。
参政党の話に戻ると、参政党の党員の間では、自分の子供が「おおきくなったらさんせいとうにはいって日本をよくするんだ」と言っているという話が出ると、喜んでいる。
わたしがその子の親なら青ざめますがね。
もうひとつ、子供というより若者についてだが、これにも参政党の主張にはついていけないものがある。
参政党の演説では、「日本では若者の自殺が先進国で世界一だ」という話が頻繁に出る。そして、それは「日本に誇りを持てないからだ」ということになっている。
そうだろうか?
若い時に自殺するのは、類人猿のヒトとしての生態で、社会の在り方とは関係がないように、わたしには、思える。
思春期とは、それまで脳の発達を主にしていた身体発達を、脳以外の身体の発達も均等に行うようになる時期だ。
それまで、なおざりになれていた(脳以外の)身体発達が爆発的に再開される。
すると、今度は、脳の発達が、身体の発達に追いつかなくなる。
それで思春期以降は、ヒトにとってはひとつの危機的期間なのだ。心身のバランスが揺れに揺れる。
とくに少年や青年の場合、苦悩と危険は大きい。
性欲にさいなまれ、自己同一性が拡散してしまい、ヒトのオスとして持つ暴力性は、自分にも社会にも他人にも、そして親にも、向かう。
殺人件数を統計表にすると、スラム街でも閑散なムラ社会でも、二十歳前後に急にあがり、そして落ちて、山をえがく。
人を殺す欲望は、自分に向かえば、自殺となる。
日本の青少年の凶悪犯罪発生率は、今、わけがわからないくらい低くなっているのだそうだ。
たぶん、男性のメス化が起きているのだろう。男性用シェーバーに腕や脚、脇のムダ毛処理機能が標準装備されている時代だ。
それでも、オスとしての暴力性はシェーバーで剃り落とせない。
メス化した若者たちの暴力性が自己に向かい、自殺として出て来ているとしたら、それでいいとは言えないが、それでも、若い男ががひんぱんに殺人や強姦を行う社会よりは、ましではないだろうか?