自由な個人について

 自由とか個人とかいふと、なんだか深い意味があるやうな感じがする。

 戦後、アメリカの属国になってから、日本では、自由や個人といふと、戦前の国体や天皇制と同じくらゐ、ア・プリオリに価値のあるものとして教育されてゐる。
 ア・プリオリ、「カントの認識論で、経験や事実に先立つ条件のこと」と国語辞典に書いてある。
 もう理屈抜き、とにかく「自由が一番、個人が何より大切」と思ってわたしたちは暮らしてゐる。


 今や、権威主義的国家・中国の「脅威」に対して、自由民主の日本は、毅然として軍備を増強してゐる。
 実は、アメリカの権益のためだが、日本人としては「自由と民主主義が脅かされつつあるから」と思ってゐる。
 冗談かと思ったら、本気らしい。

 大東亜戦争が終はったとき、「どんな理由にしろ、戦争だけはいけない」とアインシュタインの言葉を胸に刻んだ日本人。
 それなのに、近頃は、
自由のためなら、また、戦争も辞さない
といふ世論になってきてゐる。 

 これもあれも、アメリカの属国教育、つまりは、人間にとって一番大事なのは、自由と個人であるといふ洗脳が効いたのだ。
 今や、日本人は、個人の自由を守るためなら、核ミサイルを何百発も日本列島に向けて配備してゐる中国とも「全体主義に対する自衛戦争」を行ふ覚悟なのだ。

 わたしなら、中国の植民地化を選ぶ。
 なぜなら、わたしは日本人だからだ。

 日本人は、暮らしが楽ならイデオロギーはなんでもいい。そのことは、七十年以上になる・アメリカの属国時代で証明済みだ。
 戦争に負けるまで、天皇陛下万歳を三唱してゐた臣民たちが、マッカーサー閣下が来たとたん、民主化バンザイを叫び出して、今日に至ってゐる。

 中国の属国になったからと言って、経済が右肩上がりである限り、日本人は誰ひとり不満を感じない

 さて、ア・プリオリに、つまり、経験や事実を参照しないまま、それが命より大切だと信じてゐる自由と個人だが、実は、それを求める心理は説明できる。

 冒頭に引用したニュースは、暴力団を指弾した市民たちが報復を恐れて暮らしてゐる事実について述べられてゐる。
 これだから、暴力団には逆らえないのである。

 さて、この暴力団の組員たちには家族がゐる人たちもゐて、その家族はそれぞれの地域で暮らしてゐるだらう。暴力団だからといって、市民から身体的心理的な迫害を受けることはない。

 つまり、暴力団の組員の家族は、市民からいつ報復を受けるかとびくびくしながら暮らしてはゐないのだ。

 組員の妻たちは食糧をスーパーなどで自由に買へるだらうし、子供たちは公立学校で友達と勉学に励んでゐるのだらう。暴力団の子供だとバレても「いぢめは絶対にいけない」のは勿論である。

 何が言ひたいかといふと、自由な個人として生きてゐるのは、暴力団とその家族だといふことだ。やりたいことをやって、それをまったく咎められない。

 暴力団でない人は、
何かと他人に気遣ひ
いやなことをされてもたいていは我慢をするし、相手が暴力団の人なら、いやなことをされても、むしろ、笑ってゐるだらう。

 わたしたちが、そんなふうに、不自由で、自分個人としてのやりたいことややりたくないことを抑へ込んで生きてゐるのは、わたしたちの棲む社会が相互依存関係から成り立ってゐるからだ。

 特に、日本の社会は、お互ひの依存の度合ひが(西洋でも東洋でもとにかく外国と比べると)深い。
 海外で暮らした人は、たいてい「あれ、なんか、自由だな」と感じたと思ふが、それは、人目から自由になったといふことだ。

 相互依存社会が成り立つのは、互恵性を保ってゐるからだ
 お互ひに、与へあふ。奪ひ合ふのではなく、進んで与へることで、結果として自分も与へられる。与へるはうが、帰ってくる報酬が多くなる。
 帰ってくる報酬が多くなるのを維持するには、与へられたのに返さないメンバーを監視する必要がある。
 それで、或る集団で、与へ合ふ関係が強ければ強いほど、メンバー間の相互監視もそれだけ強くなる

 日本は相互依存社会だ。そして、相互監視社会である。
 ズルい奴は許さない。独り占めは許さない。

 政治的関心のある庶民とは、政治家や金持ちの独り占めやズルを許さない人たちだ。キシダとかタケナカとかに対して血を吐くほど嫉妬してゐる。
 あいつらだけは許さん。権力や利権の独り占めをしてゐるからだ。

 こんな相互監視社会だから、個人は自由ではない。
 個人は、常に見張られてをり、だから勝手なこと、ズルいことができず、不自由でたまらない。

 こんな社会だから、日本人は常に自由に憧れてゐる。
 暴力団のやうに、自分は横暴なことをして、それでも、みんなが相互依存関係の中で生産してゐる食糧や物品やサービスを、好きなだけ享受したい。

 暴力団の人のやうにどこでも自分のやりたいようにして生きてゐる人は、コロナ禍で「日本人はみんなマスクをしてゐる」ことに腹を立てなかったと思ふ。自分は好き勝手にできるとしたら、日本の社会にどれほど同調圧力があったって、自分にはどうでもいいからだ。
 実際、入れ墨をチラ見させてゐるノーマスクの人には、さすがのマスク警察も、見ないふりをしてゐたはずだ。
 逆に、入れ墨をちらつかせて、「こら、お前、マスクしろ」と言はれたら、ふだんは「このコロナ脳め、マスクするかどうかはオレの勝手だ」と突っかかる人も、黙ってマスクをしたに違ひない。

 社会の中で暮らしてゐると、暴力団の人でない限り、この種の屈辱は何度も味はってゐるはずだ。強い者の前、つまり、世間の目の前では自分の真の欲求や欲望を抑へ込まなければならない
 ああ、個人として自由に生きたい
といふ気持ちは、群れとして生きる人なら、誰にでもあるだらう。

 西洋人たちが、自由といふ言葉を持ち出して、それに何かしら素晴らしい価値でもあるかのやうに装ったのは、自由を掲げて王制を倒さなければならなかったからだ。
 既存の体制が自分たちの利権を圧迫してゐるなら、何か、その既存の体制を観念的に打破できるイデオロギーがまずは必要になる。
 そのイデオロギーに感化させておバカな仲間を増やし、その仲間によってさらにおバカな人民たちを洗脳し、既存の体制にノーを突き付ける民衆を作り上げる。
 
 これが革命だった。
 そして、うまくいった。

 その後残った、自由とか個人とかいふイデオロギーは、明治期の天皇みたいに神格化されて、わたしたちは、今も、その空虚な、造られた神を信じてゐる。
 全体主義の中国と、「自由と民主主義のために戦はう」といふ気になるくらゐ、その神を信じてしまってゐる。
 
 はやくGHQの洗脳から目覚めて、右肩上がりの経済になれば、他に何も必要としないといふ純粋な日本人に戻ってほしい。

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