日本人の民族性
民族性
或る民族が持つ特有の性質
日本の民族性といっても、世界のすべての民族と較べてみないと実際のところはわからないはずだ。
民族性を抽出する「科学的な」方法も存在しない。
だから、民族性について語られゐる場合、どんなに学問的な装ひをしてゐても、「感想文」である。といふことは、文系の「研究」と称するものの典型的な例だ。
それを踏まへたうへで、上記のテレビ番組を見て「これが日本人の民族性だ」とわたしが感じたことを書きます。
感想文です。
この番組の最後のはうで被爆者と博士が「対話」する。
被爆者は「謝罪の言葉がほしい」と思ってゐるが、もちろん、I am sorryは言はない。英語でそれを言へば、賠償責任をまるごと認めたことになるからだ。
日本人としては、せめて「遺憾の意」くらゐは表明して欲しいところだが、それも無理だ。
英語話者にとっては、自分が間違ってゐないなら、相手が間違ってゐる。
個人を離れた「状況」がわるかった、仕方なかったといふ発想は無い。責任は人や組織にあるのだ。
博士は「謝るのは卑怯なパールハーバーアタックをしてアジアを戦争に巻き込んだジャップのお前らだ」といふ意味のことを言って、被爆者は涙を浮かべたが、そんな言葉で泣くなよと腹が立った。被害者であることしか武器が無い。だから、泣いて見せるしかないのだ。
被害者であることが万能なのは、たぶん、日本国内だけだ。
わたしが当事者なら、被害者であることとは別の武器を取り出して、博士を刺しただらう。
けれども、短刀を隠し持って対話に臨んだわたしも、博士が「申し訳なかった」と言へば、手を取り合って泣いたかもしれない。
謝罪されると、恨みが消えてしまふ。お互ひに、憂き世に浮かび、やがて消えてゆくはかない存在であるなどと考へて感慨にふける。
そんなおめでたい民族性はめったにない。
韓国人が日本に対する恨みは千年忘れないと言ってゐるが、それは世界標準化機構からは認証される民族的態度だらう。
日本人のはうがおかしい。
国際社会から見ると、きはめて遅れてゐる。だめな民族性である。ジェンダーギャップ指数どころではない。
空襲の被害、満州の被害、シベリア抑留の被害、なんでもかんでも片っ端から忘れてしまふ。
たぶん、日本人の誰も、この三つの被害に関する数字を言ふことができないはずだ。
どうして忘れるのか?
(前の世代が忘れるから、今の世代は「知らない」)
焼夷弾で女子供を焼き殺した相手、満州で民間人を殺戮し女性を輪姦した相手、シベリア抑留で「帰国者たりうる第一の条件・民主主義者であること」を充たさなかった五万五千人の日本人を日本人に殺させた相手が、「すみませんでした」と言はないからだ。
わるびれない。それどころか、わるいのは日本だとまくしたている。
さうなると、日本人は反省を始める。
自分たちが軍国主義の侵略者だったから、自分たちも酷い目に遭ったのだと思ふやうになった。
日本人同士でも、たまには、まったくわるびれない人がゐる。さういふ人とは日本人は卑屈な笑顔を示して友達となる。
日本人には、謝らない相手をずっと非難を続ける、まったく反省しない人を恨み続けるといふことができない。
諦めて、自分が「恨みを捨てたいい人」になる。
これだけだと、日本人は温厚で「いい人」だなといふことですむ。
けれども、裏面があって、日本人には卑劣で陰湿なところがある。
反省し謝罪する身内(日本人)に対しては容赦がない。
日本人は、被害に遭ふと、アグレッシブに加害者を非難しない。
自分がどれほど酷い目に遭ってゐるかを示す。
殴られたら、「なんだ、このやろー」と怒鳴るのではなく、顔を抑えて「いたたたたたーっ」と叫んでのたうち回って見せる。
それを見て、相手が「大変なことをしてしまった。申し訳ない」と思って謝るのを待ってゐる。
こんなことは、日本以外のどこの国で通用するのだらうか?
日本を出ると、まったくわるびれない民族のはうが圧倒的に多いやうに、わたしには、見える。
さういふ民族が日本に移民としてどんどん入ってきてゐる。
移民は、日本の民族性などは知ったことではない。自分たちの民族性と異なる民族性に対して配慮するのは、日本の民族性でしかないからだ。
その例となるものが一つ。
『京大総長、ゴリラから生き方を学ぶ』(山極寿一・著)には、次のやうなくだりがある。
たとえば、アフリカのレストランで食事をしている最中に「ちょっとトイレに行ってくる」と、テーブルの上に自分の財布を置きっぱなしで席を立ったとします。日本では「君たちなら、財布を置いていっても大丈夫」という信頼の証しとも取れる行動ですが、アフリカでは「君はオレの財布は盗らないよね?」ということを暗に押し付けているととらえかねません。もし、そのお金が彼らにとってすごく大金で、日本人の私にとっては小遣い程度だと相手が思っていたら、ちょっと盗ったところで分からないだろうと魔が差すかもしれない。それが人間というものなのです。
そして、彼らのそういう欲求を引き出してしまった原因は、お金を置いたままその場を離れた私にある。コンフリクト(葛藤)や悪事を働かせるチャンスをつくり出してしまったという点において、アフリカではとても失礼に当たることなのです。(p.70)
いろいろと突っ込みたいけれど、書き写すだけで疲れたので、もう、引用だけにしておきます。
日本人は、日本に来た移民には、日本の言語も文化も特殊で複雑すぎるので、簡単で分かり易いものにしようとしてゐる。
相手に合はせる。
相手に配慮する。
さうすれば、相手も恐縮して、こちらに気を使ってくれるはず。
それが日本人の民族性だが、どの国からの移民が、この民族性を理解してくれて、わたしたちの特殊きはまりない民族性に配慮してくれるのだらうか?
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