芸術の一ジャンルとしての近代小説と断絶した日本語

 小説とは何かについて考へてきて、先ず
近代小説は、工業化社会が生み出す都市生活に適応できない人の「生きづらさ」を表現するツールとして生まれた
と思ひました。

 次に、
日本の小説は、文語体ではなく言文一致文で書かれたが、それでもその日本語は伝統的な日本語だった。

 その意味は、伝統的な日本語とは、漢文素読や万葉集以来の古文を幼少期に意味もわからず読み込むことで、根幹となる語彙と文法を血肉にすることで成り立つ。それを身に着けてゐた日本人たちのうち、文才のあるものが、口語体を使って小説を書いた、といふことです。

昭和の敗戦の後、アメリカ教育使節団の指導により、伝統的な日本語は根っこを切り倒されることになった。

 これに代はって出てきたのが、作文教育。
 意味のわからないものを大量に読ませるのではなく、まだひらがなしか書けないときから、とにかく、作文、作文、作文。

 かうして、詰め込み教育ではなく、自分で考へる訓練を子供の時からすれば、英米人のやうな民主的人間になって、二度とあんなバカな侵略戦争をしなくなる、といふので、小学校の先生たちは、作文教育に燃えた。
 ちょっと前まで「お国のために死にませう」と軍国少年少女を生産してゐた情熱が、敗戦で行き場を失ってゐたので、作文を通して日本人を民主化させる教育をGHQから指示されて、先生たちは張り切りました。

 そして、今でも、作文、作文と言ってますが、待てよ、東大に来てる学生は、子供の時から作文より、僕や私は本をいっぱい読んで読書が好きな子供だったと言ってたなと気づいた人がゐます。

 その後、なんかいろんな本が出て、なんでも短絡的な世の中なので、「読書好きの子供は東大に入る」みたいなことになって、読書だ読書だと言ひだした。

 なんで、読書なのか?
 漫画ぢゃだめ?
 映画は?
 アニメは?

 近代小説については、わたしは、次のやうに思ってゐました。
誰のものでもない「自分だけの生きづらさ」を、誰もが理解できる言葉によって物語の形で提出する

 でも、最近のnote、それから少し前のブログを読んでゐると、ちょっと前のアダルトチルドレン、今の発達障害、HSP、ADS、そしてトランス女性にトランス男性、さういった人たちが書き綴る、膨大な生きづらさの報告は、かつては「自分だけの生きづらさ」だと小説家たちが思ってゐたものを「みんなの悩み」にしてしまひました。

 科学技術による都市化の中で、人が苦しみ悩むことは、みんな似たりよったりだといふことが、SNSによってバレてしまった。


 かつては「問題小説」みたいなものがあって、社会が大騒ぎすることがあります。昭和三十年芥川賞受賞の『太陽の季節』(石原慎太郎)、あれが嚆矢となって、小説とはあんなもの、つまり世間をアッと驚かせるものだとみんなが思ふやうになりました。

 だから、今でも、自分は毒親でひどい目にあったから、小説家になれると持ってゐる人は少なくないと思ひます。
 世間の人が驚くやうな人が、驚くやうなことを書くと、それが小説だと捉へられて、芥川賞が与へられます。
 たとへば、「お笑ひ芸人」がものを書けば、それが最初の芸人なら、新たな小説家が出て来たとされるでせう。
 江頭さんが感動物語を書いたら、芥川賞を取れると思ひます。
 女性なら、自分のことについて、適度にエッチ(←死語?)なことを混ぜて書けば、小説家になれます。

 昨今の芥川賞受賞作品の日本語のひどさを見て、わたしは思ひました。
 ああした小説を書いた人たちは、子供のときは作文の時間に先生から褒められた人なんだらうなと思ひます。
 わかりすやく、簡潔に、ロジックを忘れないで。
 ああ、よくできました。

 さうして国語(←死語?)でいい成績をもらって育った人が村上春樹氏の小説を読むと、
わかりにくい、ごちゃごちゃしてる、ロジック不明
といふ文章に触れて、「ああ、これがブンガクか」と感動する。
 そして、作文で磨いた文章力にハルキ風の文体を鋤き混んで「小説」にする。
 

 近代小説が芸術のひとつのジャンルに入り込んだのは、中にすごく芸術的なことが書いてあるからではなく、言葉が芸術になったから。

⑤近代小説の芸術性は、言葉の創造性が支へた。

 言葉は、想像させる。
 だから、漫画や映画とちがって、
「猫がゐた」
と書かれると、読んだ人の頭は、ぼーっとしてられない。
 「猫がゐた」を像にするため、想念を巡らす。
 頭の中で、創造活動が始まってゐる。

 日本語は、「一匹の猫」みたいに細かい描写をしないですみます。英語は、catでは文法的にダメで、a catか、 catsか、 the catか、 the catsのどれか。catだけだと猫の肉みたいな意味の時に限定されたりして、とてもうるさい。その代はり、頭の中は、日本語ほど忙しく想像しないですみます。
 だから、忙しくお金の計算をしながら会話したり文書を交はすビジネスには、便利な言葉です。
 でも、創造を通した芸術を生み出したいなら、日本語のはうが便利といふことになります。

 その日本語は、もう、無い。
 小学生の自分の子供が、人中で大きな声で英語を話してゐると、自分も白人みたいに鼻が延びてる親がめだってきましたが、いっそ、日本語を英語にしたら手間が省けていいんぢゃないかと思ひます。


 読書は確かに想像力を養ふかもしれない。だから、東大に子供を入れたいとかビジネスで成功して名声と女を手に入れたい(←これはわたしのことでしたね)、ビジネスで成功して子供たちの未来を明るくしたい人たちの下心を掴んて、「名作の解説」などの本が売れに売れる。
 けれども、名作として紹介されてゐる文学に書かれてゐる日本語が、もう、今の日本人には読めなくなってることには誰も触れない、嘆かない、絶望しない。
 本を読んでる、名作のあらすじを知ってゐる、どこがすごいのかといふ要点をXに書ける、それだけで満足すする。
 これは、わたしには、とても不思議な現象です。

 現代語訳『学問のすすめ』が読まれてるらしいですが、明治の一般人に向けて書かれた、あの底の浅い啓蒙書が、今では翻訳でしか読めなくなってゐるなんて、もう、日本は終はってるなと(人として終はってるわたしは)思ひます。


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