自由のない国、日本
このタイトルに惹かれてわたしの記事を開いた人は、↓の記事を読んで帰ってください。日本の学校はダメだなあ、と嘆きながら。
わたしの書くことは、不快な、というか頭のわるいネトウヨの、自由なんて幻想やでという話になりますので。
ここからいやな、バカなネトウヨ話が始まります。
先ず、最初の前提として、わたしは、自由というイデオロギーを神格化していない。むしろ、誰かが「自由は何よりも大切だ」といったことを言い出したら「もう、この人とはわかりあえないな」という思いがよぎる。
何よりも大切って、まさか、Give me liberty, or give me death.ってこと?
自由だったらいいのは確かだが、そこまで言えるのかな?
それを考えるには、まずは、そもそも自由とは何か?ということになる。
そうすると、アホなわたしは考えてもわからなくなって頭を抱える。
けれども、頭のいい人は頭がいいので、こういう問題は簡単に解決してしまう。
人の嫌がることをしなければ何をしてもいい。
ルールはそれだけで必要にして十分である。
まったくそのとおりだと思う。
つまり、自由が実現するには、「人の嫌がることはしない」人ばかりになる必要があるということだ。
だから、自由な社会するために、先ずは様々な禁止、そこまで言うのかというような、しつこくねちっこい規制が行われる。
(誹謗中傷が禁止されて言論の自由が規制されたことを思い出してください)
禁止や規制を社会で機能させるには、具体的には規則が必要になる。
人の嫌がることをしなければ何をしてもいい。
ルールはそれだけで必要にして十分である。
と唱えているだけではお経である。
人の嫌がることをしなければ何をしてもいいという概念に基づいて規制を社会的に機能させるなら、まず、総則。それから、細則。そして、附則。
さらに、運用が始まれば、
任意規定、
強行規定、
委任規定、
訓示規定、
効力規定、
努力義務規定、
禁止規定、
解釈規定、等々が必要となってくる。
冒頭に添付した記事の一部をここで引用しよう。学校のことを言っているのだが、学校にかぎらず、規則だらけの社会も同じように描写できると思う。
この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだすしくみに、私たちはなかなか気づくことができない。
しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。
市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。
たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。
逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。
こうして禁止や規制が具体的に機能しはじめたら、やっと自由の出番だ。
それらの禁止や既定の隙間に「自由」を見つけることができるようになったからだ。
自由を求めたはずなのに、規則だらけ、つまり、いわゆる法治国家という六法全書と膨大な(しかも増え続ける)判例集によってがんじがらめにされた社会になってしまっている。
どうしてこうなったのか?
禁止と規制がなくなればどうなるかをわたしたちが知っているからだ。
つまり、すべてを自由にすればすべての自由を失うことを、わたしたちが普段の暮らしの中で体験的に知っているからだ。
いまどきのもののわかったインフルエンサーと呼ばれる人たちなら、
人の嫌がることをしなければ何をしてもいい。ルールはそれだけで必要にして十分であるということはあたりまえのことだと言うだろう。
そして、冒頭に紹介したネット記事のように、日本は欧米に比べてダメだという実例を並べ立てると思う。
けれども、いまの日本でインフルエンサーと呼ばれる人は、たいていビジネスで成功している人たちだが、自分たちの管理する会社なりワークショップなりを人の嫌がることをしなければ何をしてもいい。ルールはそれだけで必要にして十分であるという自由によって運営できているのだろうか?
自由なのかもしれないが、すくなくとも
そのインフルエンサーが嫌がることをする自由は無い
はずだ。つまり、自由とは言い条、禁止と規制のもとに生まれた自由だろうと思う。
ビジネスにおける自由は、別だというのだろうか?
もし、そうなら、学校についても言えるだろう。
学校での自由は、別だ。
わたしたちは自由だ。人の嫌がることをしなければ何をしてもいい。
だが、学校では別だ。
なぜなら、例えば、学校には授業なんぞというものがあり、授業が始まる時間は自由にできない。「みんな」が平等に授業を受けるためには、授業時間の自由は諦めなければならない。
学校では、教師ですら、自由に授業ができない。決められたことを決められた割り当てに従って教えている。近い将来はロボットに取って代わられる仕事を今は人がやっている。
ロボットみたいでロボットよりだいぶ出来のワルイ人が(先生、すみません!)授業をしている、それが学校というものだ。
遊園地とは違うのだ。
自由になりたい人が学校に通うのは間違っている。
学校には人が大勢集まる。その大勢の人がいる場所で「嫌がる人が誰もいない」自由を作り出すために、禁止と規制だらけである。
学校での自由は、例えば、休み時間くらいだろう。
その時間であっても、
何をしていい
何をしてはダメだ
という厳格な規則が無いと自由な休憩時間とはならない。
自由な時間に自由なことをしていいとしたら、論理的にはそれぞれが何をしてもいいのであるから、何をするかは無限に広がる。わたしなら人を殺す。
だが、そうなると殺される誰かにとっては、わたしが人の嫌がることすることになる。
人の嫌がることをしなければ何をしてもいい。
ルールはそれだけで必要にして十分である。
わたしもこれでいいと思う。
けれども、
人の嫌がることを、人がしないということは、現実には、有り得ない。
わたしたちヒトは他人がいなければ生きていけないが、いや、むしろ、他人と相互依存しなければ生きていけない動物であるからこそ、もっともいまわしく感じるのが他人の存在なのだ。
それなしでは生きていけない他者、そして、社会。
わたしたちヒトが心の底から憎んでいるのは、そうした他者と社会だ。
この憎しみから、愛国心や共産主義思想といった社会的イデオロギーが生れる。
独りで生きられる人(他者と社会を必要としない猫のような人)にとって、国家も平等、どちらもどうでもいいことである。「意味がわからない」イデオロギーである。
わたしの心には人類に対する愛がある、という人は危険だ。
そういう人の心の中には、必ず憎しみ、しかも特定の誰かに限定されない無限の憎しみがある。
誰もかれも死んでしまえ、と寝ても覚めても叫んでいるはずだ。
そういう無限大の憎しみが無い限り、特定の誰かに限定されない愛すなわち人類愛などといった妄想は出てこない。
自由という概念に崇高なものを感じる人は、人類全体の幸福にも関心があるに違いない。
誰もかれも死んでしまえ、という思いと、
自由になりたいという思いは、表裏一体だ。
すべての他人がわたしの嫌がることをいっさいしなくれば、わたしは自由であるどころか、幸福にすらなれるのである。
そういう世界になることを、わたしも切望している。
(わたしの場合は、そういう世界とは、『美しい星』(三島由紀夫作)に出て来る宇宙人の願いと同じく、全面核戦争の後で全人類がいなくなった地球のことだ)
そこでは、わたしはほんとうの自由を手にしているはずだ。
ほんとうの自由、それは、群れ動物のヒトが自らを慰めながら想い描く夢想だ。