不安と哲学、不安と宗教
不安とは潜在的な危険を探査する気分だ。
何につけてもまったく不安を感じない人は、たぶん、遅かれ早かれ、社会的にも身体的にも破滅するだろう。
強迫性障害者が感じる不安は、必要な程度を超えていることで、病的だ。
その不安は、周囲や環境に潜在している危険ではなく、「自己という存在」自体に潜在している根源的な危険に対する警告だ。
だから、警報は、生きているかぎり、四六時中、鳴りっぱなしとなる。
この存在そのものにまつわる危険に反応して鳴りっぱなしの警報を止めようとするのが、西洋の哲学や宗教である。こうした哲学や宗教は、不安の無い生を目指すという倒錯に陥る。不安があるから生であるのに。
一般の人にとって、西洋の哲学が難しいばかりで、感銘も受けないし、役にも立たないのは、病的な人たちの病的な不安を抑え込もうとして、病的な人たちが頭を絞って並べた言葉だからだ。
ジャック・デリダ、メルロ-ポンティ、ヴィトゲンシュタイン。知的芸人のぶらさげる知的なアクセサリーとしてくらいしか実用性が無い。能天気な知的芸人も西洋人の根源的無に対する不安は実感できていない。
それは本気でGodがいると信じたことの無い日本人だったら、当然のことだ。
宗教に関しても、日本人は、西洋人の観点からみると、宗教らしい宗教を持っていない。自然の中に漠然と超自然的ななにかを感じるまでのことだ。
なにかスピ系の商売を考えていないなら、そこで龍が見えたり宇宙人の乗っているUFOと出会ったりすることもない。
西洋人は幼少の頃に宗教的洗脳を受けるから、誰でもGodがいると本気で信じることから人生を始めている。西洋人はひとりのこらず宗教2世なのだ。
宗教2世の人生は、Godという作り話をどうやって保持するかの工夫に費やされる。無神論は、Godを信じる方法のひとつだ。Godを信じたことのない日本人には、無神論は理解できない。
それも不安の感じ方が理由だ。西洋人は、一神教のGodを考え出したおかげで、Godのいない世界が無になってしまった。
Godが世界を創ったのなら、Godがいなければもう何も無い。根源的無を背中で押さえ込んで、人間の暮らす世界を守っているのがGodだ。
Godが倒れたら無が世界に流れ込み、都市も人もみんな無の中に没してしまう。
日本人の棲む世界にはGodはいない。いわゆる「神々」も自然から生まれている。だから、神々も死ぬ。死んで自然に還るのだ。
自然とは有とも言えず無とも断ずることができない。渾沌、つまりなんだかはっきりしない状態ということまでしか分析できない。
空と言うと一番近いかもしれない。
揺らいでいる無、という捉え方が二十世紀以降の物理学ではあるらしい。