働くこと


 この散文詩のように美しいエッセイをネタにして、わたしのネトウヨ思想を展開するのは申し訳ないことであります。でも、ネトウヨではなくても、このエッセイは、読んで何かしら心が動くはずです。
 日本人なら。      ←その一言が多いんや、排外主義のネトウヨ。



 さて、わたしの心を動かしたのは、詩的な美だけではありませんでした。
 仕事に関する日本人の捉え方です。

 昔の日本人は、基本的に仕事を「お互いのためにやる」ことと感じていたと思います。
 これは、「お互いさま」という感じが蔓延していたことと関連します。
 日本では個人としてきりっと生きている人はめったにいなくて、たいていの人はお互いに(今の個人主義の私たちから見ると)かなりだらしなく依存して暮らしていた。

 相互依存社会。

 その強固な相互依存社会では、仕事も「お互いのため」にすることであり、個人がオンリーワンとして輝くための手段ではなかった。
 だから、親のやっていた仕事を継いでも、たいていは、あまり悩むことなく、一生を終えていた。

 よくいわれる「はたをらくにすること=働く」←おやじギャグみたいだけど、という捉え方だったと思います。
 たがいが「はたをらくにする」ために働いているので、騙されたり搾取されたりする心配も無かった。

 だから、仕事に関して賃金や時間の規定はあっても、それをきっちり守るという意識は無かった。
 時間外でも働く。
 それをしてもお金にはならないということでも働く。

 みんな、そんなものだったからだ。
 
 そんな次第だから、かつては、ずる賢い商人たちに仕事を奉公などと思わされて搾取されるようになった。
 本格的な資本主義経済になってからは、さらに搾取は苛烈となり、いわゆるブラック企業や過労死、外国人株主による乗っ取りまでに突っ走っていった。

 商人に搾取されるようになると、心づけというものが餌として与えられるようになる。西洋でいうチップですね。
 自分たちのしたくない下等な労働をしている底辺労働者が、高等な自分たちの気に入る「いい仕事」をしたら、それに応じてお金を恵んでやる。そうすると、お金がほしくて、労働者どもが「いい仕事」をするようなると考えた。

 落語などの師匠と弟子の関係も、弟子が持つ日本人の労働観を師匠が搾取する形で成り立っていた。今でもお笑い系の芸能界ではあることらしいが、師匠が弟子たちに折にふれお小遣いをくれたりするそうです。
 「奉公」「服従」を強化するために、お金を餌にしている。

 商人・芸人が武士から最も蔑まれていたのもむべなるかなであります。

 それでも、わたしは、日本人の相互依存社会の労働観には棄て難いものがあると感じています。

 本来の日本人の労働観では、報酬ももちろんほしいけど、人や世の中の役に立ちたいという思いが労働の主力エンジンだった。
 だから、かなり奉仕的奉公的にしんどい仕事をした後でも、ありがとう、助かりますの一言で、嬉しくなってなにか報われたという感じがして、明日も頑張ろうなどと思ってしまった。
 そのときに、お金をもらう必要は無かったと思う。
 相手から「いやあー、遅くまで申し訳ないね、少しだけど、これ」と言ってお金を出されても、断る人がほとんどだった。
 そんなお金を受け取ると、かえって自分のやったことが台無しになりそうな気持があった。

 西洋のホームレスは、富裕層の人の家の前を勝手に掃除したり、渋滞している高級自動車のフロントガラスに張り付いて拭いたりすることで、お金をもらおうとしている。
 これが、西洋的な労働観だと思う。
 お金をもらうために働く。
 「ありがとう」と言ってお金をくれないより、ああ、またホームレスかよ、鬱陶しいなあという表情で小銭を道に投げてもらう方がありがたい。

 相互依存関係が存在しない社会では、お金がすべてで、お金がなければ何も始まらない。
 相互依存を拒否し、個人が独立して生きている社会では、自然に、西洋的な労働観になると思います。

 頼れるものは自分だけ。そういう状況に置かれ、そこから這い上がった人の場合、日本人でも、日本的な労働観は何をバカなことを言っているのか、意味わからんわ、ということになると思います。


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