noteのおかげ
わたしは加害恐怖が半端ではない。
記事を書く時も、誰かの心を傷つけたり汚したりしてゐるのではないかと恐ろしい。
noteにフォローという機能があって、わたしも自分と違ふ考へや感じ方に触れたくてフォローしてゐる。
フォローすると多くの人がフォローバックしてくれる。自己紹介に書いてゐるやうに「それはご無用」である。
といふのも、謙虚な性格だからではない。noteは自己承認欲求のために書いてゐるから、できるだけ多くの人に読んでほしい。
だが、フォローした人の記事の様子から、わたしの記事を
①関心を持って読むとは思へない
②(わたしの記事が)有害である
と思へる人たちがゐる。
わたしが自分の記事を書く時に、いつも気になるのは、②だ。
わたしとしては、ものごとの真実に迫りたくて書くのだが、読んだ側としては、
ただの悪趣味、
ただの逆張り、
ただの無教養などと思はれるのではないか。
さう思はれると、だいたい事実なので、困るのだ。
さらに、読んだ人の価値観をあざ笑って、その心を傷つけてしまふのではないかと怖れたりする。ここまで来ると、妄想だ。わたしの文章にそんな力は無い。
それにしても、
noteは自己承認欲求のために書いてゐるから、できるだけ多くの人に読んでほしい
といふのは、わたしに限ったことではないかもしれない。
フォローするのは、自分の記事を読んでほしいから、そして、スキを入れるのは、自分のnoteの存在を知らせるためといふ人も少なくないやうに思へる。
さういふ人たちは、他人のnoteは、ほとんど読んでゐない。毎日、自分のnoteを書くため、そして読んでもらふため、その二つの目的だけでnoteを使ってゐる。
その後は、片っ端からスキを入れる。内容は読んでない。
さういふ人が他人の文章を読むのは、たぶん、Xなどの短文だけなのかもしれない。
SNSでは自分語りが多いが、わたしはそれを読むのが好きだ。
わたしは自分の「わたし」しか知らないが、自分語りの記事を読むことで、わたし以外の「わたし」がゐることに気づける。
ふだんのわたしは、まったく自己中心、世界の中心はわたしだと思ってなんの疑ひもなく生きてゐる。
けれども、現実には、
わたしの「わたし」は、無数の「わたし」の一つに過ぎない。
そんなあたりまへの事実に気づくことができるのは、noteのおかげだ。
といふのも、インターネット以前の世界では、文章は紙に印刷されたものとして、わたしたちの目に触れた。
つまりは、本だ。
本を書ける人たちの「わたし」にしか、わたしたちは出会ふことができなかった。
その頃、いつかは本にしたいと思って自分のことを書いてゐた人たちもゐたに違ひないが、出版して収益につながると編集者が判断する内容しか本にはならなかった。
だから、本を通して触れることのできる「わたし」は、ごくごく少数、しかも、出版商売の目的といふ針の穴を通ったものだけといふ、おそろしく偏ったものだった。
今は、誰も彼もが「わたし」の承認を求めて、SNSに浸ってゐる。
日に何度もXに書き込む人もゐるのださうだ。
「わたしは今ここでかうしてゐます」といふ記事を、写真や動画をつけて、不特定多数の人に向けて毎日書く人も少なくないらしい。
もし、スマートフォンを取り上げられると「生き甲斐がなくなり」「自己存在感が消えてしまふ」としたら、その人は、セレブ並みの自己露出症、自己愛性障害に陥ってゐると言へなくもない。
わたしは、かつて自分の「わたし」はユニークで孤独だと思ひ、そのことに苦しんで生きてきたが、今、HSPと自称してゐる人とわたしの悩み苦しみは、ほとんど重なる。
ASDなどの診断書をかざしてものを書いてゐる人たち(かういふ人たちはHSPを自称する人たちと違って、自分たちは医師の診断を得た・本物の「人生の苦悩者」だといふ意味のことを書く人もゐる)も、わたしの同志である。
わたしは、ユニークでも孤独でもなんでもなく、群衆のひとりだった。
この事実を知ることができたのは、noteのおかげだ。