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淡路島の社を巡りて~第參社目 八幡神社 (淡路市生穂大谷)

この度は、地元生穂(旧津名町大谷)の八幡神社についての記事。
生穂といえば賀茂神社を先ず上げなければならないが、やはり地元ということで思い入れが強く、調査も多岐に渡り相当量の記事になってきている(予想では上・下に分かれそう)。そのためアップは先になるが、少しずつ書き進めているので、楽しみにお待ち戴きたい。

【由緒略記】


創立年月不詳。豊前国(福岡県)宇佐八幡宮から御分霊を勧請したという口伝があるらしい。明治六年二月村社に列格。

八幡社は源氏平家から武神と崇敬され、誉田別命を祀ることから応神天皇を祖神(八幡神)とするとされている。
奈良~平安時代の書物に既に八幡神社が登場し、現在は八幡(ハチマン)と言われるが、元々は「ヤハタ」と呼ばれた。
「幡」は「旗」で「八つの旗」或いは「数え切れない程ある旗」を表し、神功皇后三韓征伐で対馬に渡った際に八つの旗を祀ったところから「八幡」という言葉が生まれたという説もある。
『古事記』『日本書紀』には八幡社は応神天皇を祖神とするという記述はなく、由来はもっと古くからあるとして、秦氏を祀るといった説もある。
応神天皇が崇敬していたのが秦氏を祀った八幡社であり、それ故に応神天皇も合祀され、応神天皇が祖神となったのではないかとする説もある。
※2020/01/03加筆

本殿側に「享保八卯年(1724年)八幡宮神前 八月十四日 願主 堺屋某(解読不可)」刻筆の石灯籠がある。

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上棟札には氏子について、

長澤村も氏内であったが、明治の末年にある紛争の為に離脱して復帰せず、以後は長澤を除く旧生穂町全域 

と書いてあるらしい(出典:津名町史)。


隣には淡路四国六十六番霊場の向月寺があり、裏山には1~88番霊場(寺)の祠が祀られている。元は八幡社の別当だったのだろう。

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金刀比羅大権現もあった。

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昔は茅(藁)葺きだった屋根をトタンで覆っていたが、
今年(2018)の台風で無残な姿になっている。

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向月寺は江戸前期の資料にも描かれており、修復保全していって欲しい。というのは容易く、住職も居ないため難しいところである。

周辺の地形(池や田)も江戸時代と殆ど変わりがない。大師堂や阿弥陀庵(跡地)が集会所として使われているようだ。
現在と違っているところは、当時の境内右端には、鐘堂・神輿蔵・阿弥陀堂が見受けられる。現在の神輿蔵は拝殿の隣に移築されている。
また、当時は拝殿の後ろが高い石垣になっており、その上に幣殿と茅葺きの本殿、小さい境内社2社が祀られている。または、下に舞殿、上に拝殿・本殿なのかも知れないが、判断できない。

【意匠・彫刻】

大谷の山麓に静かな存在感を示している。
境内・社殿は大きなものではないが、今尚地域で厚く崇敬されている。

彫師は開生珉(公輝 本名:賢二)で、拝殿の正面蟇股は「開の眠り猫」と呼ばれ地元でも有名。
昭和8年作とのことで岸和田筋海町と同年の製作である。猫の木肌はかなり荒れている。

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日光東照宮・左甚五郎の眠り猫は彩色もあり三毛猫といった感じだが、こちらは木肌の荒れ具合も相まってスコティッシュフォールドのよう。

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左面に今にも壊れそうで痛々しい玄武。右面に獅子。
玄武から考えると白虎かも知れない。
奥面には鳩が2羽。下方に配した八幡社の巴紋付軒瓦が凝っている。
左甚五郎の彫物でもそうであるが、猫と鳩の組み合わせは「争いがない平和」の祈願を意味している。
懸魚・大瓶束・笈形・虹梁は波文様です。

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私は大変不敬ながら御魂御座す本殿にも回り込んで撮影させてもらいます。「写真になど撮るものではない」とのお叱りを受けるかも知れないが、資料・記録として遺していかなければ との考えからである。
木造故に落雷・火災等で全焼失してしまった例は数多い。

この生穂八幡社の彫刻は全て生珉の作だと思われるが、「眠り猫」のように有名ではないが本殿の彫刻もまた素晴らしい。虹梁上の獅噛は他では見ない大きさであり迫力がある。

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妻面は細かい彫りの獅子鼻が四方の阿吽対だけでなく、双斗受け3箇所にもあるのは今まで廻った御社では生穂の八幡さんしか無い。

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脇障子、右面は翁・牛・梅。
左面は翁・滝・松。岩肌の部材が一部外れていた。

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そして本殿・向拝の虹梁の波・獅子鼻の象・狭間の龍。

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拝殿の隣には「昭和八年六月一日 拝殿・社務所・玉垣 改築記念」の
石碑が建っており、この中に「彫刻 開藤太郎」とある。

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前段で「全て生珉の作だと思われる」と書いたのはこのためで、
年代からの推察では、正藤が亡くなる10年前になる。正藤が請け負い仕事は共同で行った。または、生珉が行った。或いはそれとは関係なく生珉が師に捧げる意なのか。

昭和8年の改築に本殿は含まれておらず、拝殿と本殿は彫師が違うのかも知れない。向拝狭間は正藤のようにも思えるがどうなのだろうか。

寄付者には川原啓秀らと組んで檀尻制作・寺社建築をした「志筑 柏木福平」も名を連ねている。

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【祭礼・だんじり】

祈年祭1月15日、夏祭7月15日、例祭10月15日、蜜柑祭12月15日、月並祭毎月15日 「蜜柑祭」には特殊な酒を造って参詣人に授与したらしい。
酒税の関係でなくなったのだろう。

例祭には嘗て生穂の檀尻が出揃って屋台も出ていたが、檀尻は約30年ほど前に出さなくなった。生穂は道路使用が許可されず、賀茂神社春季例大祭にも檀尻を出せないことが数年間あったと聞くが、それが原因なのかは諸説あり詳細は分からない。社に一番近い覗組の檀尻も売り払われてしまった。

平成29年の例祭は10月14日に行われ、大谷南組厄年神輿が出ている。
数年前は檀尻唄(祇園囃子)の披露もあったが、年によって行うかどうかは分からない。神輿が御旅所から帰って来れば厄年による餅撒きもあるので足を運んでみては。

祭礼の様子はこちら


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