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淡路国小社十一座を訪ねる(津名郡篇)①伊勢久留麻神社

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※2020/01/03加筆・修正しました。

【由緒略記】

伊勢ノ国 久留真より勧請したと言われる。
創祀は敏達天皇の頃(西暦572~585年)と言われ、延喜式では淡路国十三座(津名郡大1座小8座、三原郡大1座小3座)の並びから(津名郡一の宮、三原郡二ノ宮を除くと)三番目にあるということで三ノ宮とも言う。
戦前は郷社正三位上の社格を誇り、古くは勅使の参詣もあったとも伝えられている。

敏達天皇は、聖徳太子の母である推古天皇の夫であり、同父兄妹である。
鎌倉時代では松枝僧正領として来馬荘があった。江戸時代には伊勢宮とも呼ばれていた。
松枝僧正について詳細は分からないが、天台座主 明雲大僧正のことであろうか。ある事件で後白河法皇により罷免され伊豆国に配流され、還俗して藤原松枝と改名させられたという。伊勢に関係するのかどうかも私には不明である。由緒書にある延喜式で最古の写本は九條家本と呼ばれる平安後期に写されたものであるが、そこには伊勢久留麻神社と書かれている。
久留麻→来馬→久留麻と改称されたが、個人的には古来の名前に戻された好例だと思う。

昭和55年の建国日に「知られざる古代~謎の北緯34度32分を行く」というTV番組で”西のお伊勢さん”として紹介された。この番組では、奈良の箸墓古墳を中心に伊勢神宮(斎宮跡)と東西対称の位置にあるらしく、伊勢神島、伊勢斎宮跡、三輪山、室生寺、長谷寺、石上神社などを通る北緯34度32分上にある。
この北緯34度32分というのは「太陽の道」とも呼ばれており、御祭神が天照大神の別名 大日霊貴尊(オオヒルメノムチノカミ)であるので、古代の太陽信仰の拠点の一つとされる説もある。
そのためパワースポットとして紹介され、一部のパワースポットマニアの参詣者が来ているようであるが、果たして…。

また、本来は西の山の端にある大歳遺跡付近に鎮座していたという説もあるが、詳細は不明である。
下記は著者が現在研究している資料を配置図にしたものだが、西山の大歳遺跡というのは城原山になるのだろうか。

配置図

ちなみに、この資料は江戸期のものであるが、題名は「来馬神社」で、内容は「久留麻神社」となっている。



(興味のない方は読み飛ばして下さい)
余談だが、筆者は所謂”パワースポット”に傾倒していない。
参拝者が増え、地域の活性化にも繋がるという意味では賛同できるのだが。
建築物としての社殿が建てられ始められたのは仏教との習合以降であろう。
然しながら、意味や由来があって其処に御鎮座されており、粛々と神事を続けていく事が重要なことだと考えている。
尚、東日本大震災では、津波が到達した地点を線で結ぶと、到達しなかった側に多くの神社があったという。
ここまで来ると、少しオカルトチックに聞こえるが、日本は太古より多くの地震・津波を経験しており、それが記録されている。それから考えても古く(平安期)からある神社は、津波被害のなかった地に在るとも言える。


【意匠・彫刻】

国道28号線沿いにあり、境内は広い駐車場として活用されている。
その奥に大きな石柱の社号標(神道古来の鳥居)と瓦葺きの社殿がある。
隣は社務殿だろうか。

拝殿には、鳳凰の拝懸魚に降懸魚もある。蟇股にがいた。長押・虹梁・花肘木・笈形も漁師町らしく波模様に合わせているようだ。

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本殿の彫刻も長年の風雨で木肌がかなり荒れているが、細かなものが多い。
燕や孔雀といった鳥類が多いが、棟上部に少しだけ見えるのは口を開けたであろうか?

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あるのが珍しい脇障子は鶴と亀に乗った老師の対になっている。
大陸の題材なのか、単に不老長寿の意味合いか?

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【祭礼・だんじり】

5月5日:春季大祭
唐破風地車型の曳き檀尻や布団檀尻・子供檀尻が奉納される。

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祭りの盛り上がりも然ることながら、普段の境内は清掃が行き渡り、崇敬厚いことがよく分かる。
現在参道は大きな駐車場となっているが、創祀の頃は入江であったようだ。海に面した境内社殿の情景を思い浮かべた。

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中内 東海坊 雨山
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