法律と条例:小奥氏から批判記事への反論
小奥(こーく)氏が、私の以下のnoteについて、批判記事を書いて下さった。貴重な時間を割いて執筆下さったこと、誠にありがたい。まずは感謝の念を申し上げる。
上記記事に対し、私はここで反論を書く。むろん、小奥氏には感謝の念があるため、私も人並みに記事の随所に氏への「社交的」な文章を散りばめたい誘惑にかられる。
しかし、「仰ることは分かるのですが、ただ私の個人的な考えと致しましては……」というような冗長性を与えるのは、マナーは良いが、読者に必要な情報・知見ではない。よって、「ご挨拶」はここまでとし、以下は論を明晰に述べることに集中する。
では、本題に入ろう(上の「ご挨拶」すら私は長く書き過ぎたと思っている)。
小奥氏はこのように述べている。
上で言う「事実」とは、私が引用した資料『法律と条例における抵触の判断方法』の内容である。この資料では、公害問題を例として、条例の規制が法律を上回っていたが、それは合憲であるとする見解が述べられている。私はこの見解に対し、「裁判官の気分(恣意的・ご都合主義的な法文解釈)によるもの」と一蹴した。
条例は法律の範囲内で定めなければならないという決まりがあるから、本件についてもあくまで違憲と判定し、その後、法律内に位置付けた上で条例を再制定すべきだと考えているためである(その理由については記事の後半で改めて述べる)。
これを小奥氏は、「事実」、すなわち裁判所が考慮した「(公害による)被害者や実害の有無」を軽視していると指摘している。
私の記事は『アリエナイ理科』の有害図書指定が主題であったから、確かにこの点について説明が不足していた。今回は小奥氏からの批判に応える形で論を明確にしよう。
まず、小奥氏は、日本の違憲審査が「附随的違憲審査制」を採用していることを次のように説明している。
ここにはむしろ私を利する内容しか書かれていない。小奥氏は、自身が支持しているであろう附随的違憲審査制のデメリットを集中的に挙げている。「場当たり的」「一貫性に欠ける」「初動が遅い」がそれである。しかも、親切にも抽象的違憲審査制の方が優れる面も確実にあるとまで述べてくれている。
それは小奥氏のある種の誠実さに由来するのだろうが、これを読んで、一体誰が「抽象的違憲審査制よりも、附随的違憲審査制のほうが良い」と思うのだろうか。
「今の日本は附随的違憲審査制を採用している」と主張されても、結局それが「場当たり的」で「一貫性に欠け」、「初動が遅い」なら、「そんなものを続ける理由はないから変えるべきだ」にしか結論は向かわない。
小奥氏は、こうしたデメリットを甘受してでも附随的違憲審査制を続けるべき理由(メリット)を明確に説明すべきである。それも、これらのデメリットを帳消しできるほど大きなメリットが必要だ(もちろん、私も本記事において「続けるべきでない理由・続けることによるデメリット」を念入りに書く)。
また、小奥氏は続けてこのように述べている。
「資料として不適である」とのご指摘だが、これは小奥氏が私の記事の文脈を読めていないことに起因する。
私は、前回記事において、次のように書いた。
私は戸羽氏の資料を、まさに場当たり的な法文解釈・説明によって辻褄合わせを行った「悪い例」として否定的に提示しているのである。
引用直前までの私の文章は、どう読んでも戸羽氏の見解に否定的だ。実際、一文たりとも褒めていないし、わざわざ「説明」と鍵括弧で括っているあたりも、露骨に揶揄している(行儀が悪いのは認める)。
私は現在の日本の(最高)裁判所が示す法律・憲法解釈、および憲法学者らが生み出す多種多様な「学説」に対し、原則として極めて否定的な立場を採っている。
これは、法の運用において、まずは「文章として明記してある内容」および「その文章から論理的に導ける範囲」を守ることが、法の予見性(何をしたら違反になり、何をすれば合法なのかが事前に予想できること)を維持し、日本が法治国家であるために重要だからである。
「法の穴をつくようなことをされたらどうするんだ?」と言われるかもしれない。その場合は法律を改正または追加すべきである。また必要であれば憲法も改正するべきである。問題が出れば改正・追加し、文章の論理的内容と運用実態が一致するように更新する。それが本来は正しい法治国家の手続きだろう。
しかし、小奥氏も認識している通り、日本は正当な手続きによって法を改正・追加して対応するというよりも、場当たり的な「解釈の変更」に終始してきた。
それを憲法学者が止めるのかといえば、まったく逆である。一つの法に対して3~5個の「学説」を作り、それらをほぼ並列に教科書にも記載する始末だ。一応、どれが「通説」かくらいは書くが、裁判所に通説を選ぶ義務はない。憲法学者は、どちらかといえば裁判所が出したい判決に合わせて学説をチェリーピッキングさせる方向に加担している。
これらの結果、日本の法は一貫性を喪失し、ほとんど「どうとでも言える」ものとなっている。
最たる例は憲法9条である。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と明記されているが、実際には自衛隊がある。それは「戦う力ではなく、守る力だから」だそうだ。少年漫画か魔法少女アニメにでも出てきそうな台詞である。
また、それでもかつては「個別的自衛権を定めたもの」と幾ばくか限定的に解釈され、自衛隊のホームページなどにも明記されていたが、これも2014年には「集団的自衛権も含まれるものとする」と更に解釈が変更された。そして事態対処法が成立した。
憲法条文が変更されたのではない。それは最初から一文字も変わっていない。ただ解釈が変わったから、事実上、違うものになった。
別に私は自衛隊否定論者ではないし、憲法9条を永遠に固定すべきだと思ってもいない。どちらかというと、実運用と適合するように改正すべきだと考えている(ただし自民党の憲法草案は最悪だったので、いま改正にかかる国民投票を実施されたら「否」に入れるが……)。
こうした「どうとでも言える」「都合が悪ければ採用する学説・解釈を変えてしまえ」という法治国家として残念な状態を、戸羽氏は、
「法律と条例とを調和的に解釈する柔軟な見解」。
「法律と条例のそれぞれの趣旨、目的、内容、効果を比較検討し、法律が条例による異なった定めを容認するかどうかを十分に検討」する。
などと肯定的に評価している。
一方で、明記された文章を大事にしようという趣旨の意見に対しては、
「条例制定権が過度に制限されることになる」
「条例が法律とは異なった定めをしているということのみで条例が法律に違反していると安易に結論づけるべきでは ない」
と否定的である。
確かに、「調和的かつ柔軟な解釈によって十分に検討された結論」と「過度に制限された解釈による安易な結論」の2つなら、誰しも前者のほうがいいだろう。
だが、こんなもの言い方だけだ。何事も美しく表現しようと思えば出来る。
次に、私が引用した『法律と条例における抵触の判断方法』について、小奥氏は私の見解が妥当でない旨をこのように述べた。
「憲法・法律・条例の調和を図った」といえば聞こえはいいが、「明記された法文を(少なくとも相対的に)軽視することにした」と書いても意味は全く同じである。どちらに主眼を置くかだけだ。
とはいえ、確かに『各県に固有の水産資源を守るために特異的に必要な規制基準を、法律で全国に定めるのは不合理』という見解には私も同意する。同意するが、そうした規制を条例でやりたいなら、それが出来るように法律を改正・追加するという手続きを踏むべきなのである。
しかし、小奥氏はそれは無理があると主張する。
一見すると説得的だが、実は無理ではないし、それほど煩雑にもならない。
たとえば、法律では包括的に「ある化学物質が各地域の環境に対して有害である恐れがある場合は、その安全性が確認されるまでの間、緊急に差し止めることができる。また、得られた科学的知見に基づき、各地方公共団体は独自の規制基準を設けることができる」のように大枠を決めておけば良いのである(この法文はザルすぎるが、イメージとして)。
このように公害対策条例が明確に「法律の範囲内にある」といえる状態を作った方が法治国家として健全であるし、いざ裁判沙汰になった時に「合憲だということにする」ためにグチャグチャの理屈(学説)を大急ぎで作り出す必要もない。またおそらく、そもそも「違憲かどうか」というしち面倒臭い裁判自体、発生せずに済んだろう。「ああ、法律の範囲内にあるな」で終わりである。
加えて、上記のような適切な順序を踏んだ方が、公害被害者救済が早まった可能性もある。「法律の範囲内にある」という明確な保障があれば、他の地方公共団体も条例を安心して作ることができ、追随しやすいからだ(もっとも、可能性であって、確実に早くなるとは言えない。どちらが早いかは個別具体的な状況によるだろう)。
またこれは非現実的な話ではない。
なぜか。すでに実例があるからである。
戸羽氏の同資料の中でも、まさにこうした「大枠の法律」が紹介されている。
この事例は素晴らしい。条例が法律の範囲内となるように明確に位置付けられている。これならば私も特に異存はない。
以上。
ここまでお読み下さり、ありがとうございました。
また、批判記事を書いてくださった小奥氏について、改めて感謝の念を申し上げます。論を明確にするため、ともすると高圧的と取られるダ・デアル調で書きましたが、批判をくださったことは嬉しく思っております。
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