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バーテンディング【理論3】共通性と個人差

 前々回の記事では「座学」前回の記事では「実技」と、「バーテンディング」という営みにおいて向上することを希むのであれば自ずと外すことはできなくなるであろう2つの枠組みについて、それぞれをより細かく要素分解し、その概要とは以下のようなものでした。

これら呼び名に個人差はあれ、その内実には大きな差異はないのではないでしょうか。
私の理論ではそれを「共通性」とし、それら共通する内容を経た先に現れるものを、
個々人固有の「固有性」つまり「個人差」
とし、それが本稿の内容になります。

「バーテンディング」における〈1〉座学では、
(1)常識(基本的な知識、基礎的な通念)を知る
(2)趨勢(現代の実情、今日の実態)を把握する
(3)歴史(どのように変遷し、どのような系譜があるか)を理解する

「バーテンディング」における〈2〉実技では、
(1)確認(実現したいこととは何で、必要なことは何か)を知る
(2)実作(現状の実力と結果)を把握する
(3)反省(成果と課題)を理解する

 と大まかな整理を暫定的にしましたが、以上のようなそれら「座学」と「実技」における要素を何度も何度も往還するということを経て、一方では情報の摂取でしかなかったとも言える「座学」で一定の取捨選別が起こるようになり、また他方ではある意味最初は模倣にしかなり得なかったとも思える「実技」で実際に力点が置かれているのがどこであるか判別が自ずとつくようになる瞬間を迎えるのだと思っています。
そして「座学」と「実技」という「バーテンディング」に取り組む限り続く両側面とも言えるそれらの要素の双方においての研鑽が、もちろんそのタイミングは万人共通ではないとはいえ、一定の習熟を迎えることで、他の人物の特徴が見え隠れはしながらもしかしまた同時に他人には再現し得ない、その人特有の理論 -- それをスタイルやアプローチと言ってもいいでしょう -- ひいてはその人による思想 -- それはスタンスやセンスと言ってもいいかもしれません -- が姿を現し出すと、私自らの実体験からも感じており、そのことについての整理が本稿の主眼となります。

 またこのことは、「バーテンディング」という営みを巡って繰り広げられている多様な流派・流儀、様々な世界観・ブランドについて認識するためには欠かせません。
批評的な鳥瞰図を持つこととは、自らの立ち位置を自覚する上でも、そして「バーテンディング」の歴史について、あるいは「バー業界」「ホスピタリティ産業」の文化的、社会的行く末に関して思慮することにも必ず繋がるものだと信じています。
 

 ではその、「座学」と「実技」を粘り強く、ときには愚直に、続けることで浮かび上がってくる「個人性」とはどのようなものなのでしょうか。
その個々人に紐づくものを「理論」と呼び、前々回、前回と同様に抽象度を少し下げて、いくつかの要素に分けて整理することを試みます。

〈3〉理論

 本稿で整理したい対象である「理論」とは、ここまでの「座学」「実技」とは異なり、バーテンディングの研鑽において不可欠であると思われる要素というよりは、それが意識的か無意識的か(それを自覚できているか無自覚か)にかかわらず、一定の研鑽を経て、一人一人の特色として浮き上がってくるものであると捉えています。
ですので、各々の「理論」とはどのように発露するのか(しているのか)を、いくつか具体的な例に置き換えることを通して、その「理論」もとい、その「理論」と同義と言えなくもない「バーテンダー」がいかなる存在であり得るかを知ることができるのではないでしょうか。

 上記の図は「座学」と「実技」が重なった部分に焦点を当てたもので、みていただけるような3つの要素に「理論」を細分化してみました。
ではそれら「嗜好性」「方法論」「技能」とは何であると考えているのか(何であると考え得るのか)順に詳述していきます。

(1)嗜好性
 
嗜好品をめぐって各々の「理論」がどのようにあらわれるのかということに関して第一に着目したいのは、その嗜好品に備わる「嗜好性」、すなわちその人に宿る「嗜好性」です。
 ここで言う「嗜好性」という言葉で表そうとしているものは、もちろんその人にとって何が好ましくまた何がそうではないということはあるので完全には切り離せないとは思いますが、個々人の好みという意味では必ずしもなく、ドリンクメイキングにおいてその人がどのような「方向性」を思い描いているのか、いかなる「志向性」をもって取り組んでいるのか、何がどうなることで「バランス」が成立しているとみなすのか、ということです。
そしてその「方向性」「志向性」「バランス」とも言い換えることのできる「嗜好性」とは、やはりその人が想像し、構築する「レシピ」にも反映されると言えます。以下そのことについて前回記事で取り上げた「ジントニック」の例を用いて示したいと思います。

左から「オーセンティック」「インターナショナル」「ミクソロジー」というふうに、
その「嗜好性」を名付けることができると個人的に思っていますが、詳細は別で述べる予定です。

 これらのカクテルはすべて同じ「ジントニック」という名で呼ばれているものの、その作成手順や要点などの内実・内容は異なるということに前回記事では触れました。では具体的に何がどう異なるのかということをそれぞれ公開されているレシピを照らし合わせて確認していきます。

(1)オーセンティック「トニックエッセンス ジントニックスタイル」レシピ出典元
(2)インターナショナル「意識高めなジントニック」レシピ出典元
(3)ミクソロジー「フリーザージントニック」レシピ出典元

 これら「ジントニック」には「ジン」「トニック」「柑橘」という要素が大枠では共通していることがみてとれます。ですがそれぞれの要素が具体的に何で担われているかに着目した場合、採用されている材料の種類、状態、形状等、さまざまに異なることがわかります。
それぞれ同じく「ジントニック」であるにもかかわらず、なぜそれらには差異があるのか、それぞれに特徴があるのか、その理由となるのが「嗜好性」です。そしてそこには様々な想像と想定が各々によって考慮されています。
たとえば、「ジントニック」というカクテルとは、どのようなタイミングやシシチュエーションで飲まれるものなのか (1杯目なのかどうか)、どのような飲み方がなされるのか(飲むスピードは早いのかどうか)、どのような味わいが心地いいと感じられるのか(そもそも調和、バランスとは何であるのか)、などです。

 どこまでいっても嗜好品ではあるためとどのつまりどちらがより優れているという話ではないかもしれません。しかし、それぞれのつくり手が思い描く世界観ではどのような方々を対象として思慮しているのか(どのような方向性なのか)によって、その仕上がり(バランス)は自ずと異なってきます。そしてそこにはその「嗜好性」が志向されるだけの、もしくはその人の「個人性」が顕現しうるだけの「理論」があることが窺えます。
 

(2)方法論
 どのように「理論」があらわれるのか(どのように「理論」はあらわれているのか)、その顕現の仕方として第二に着目したいのは、各々が構築する「方法論」です。
 カクテルメイキングにあたってつくり手というのは向き合う対象となるドリンクがどのようなものであったとしても、どのように道具を使用するか、どのような手順を経るか等、その都度どの方法を採択するかを決断しなければなりません。そのことを確認するため引き続き「ジントニック」を例として取り上げたいと思います。

「方法」と言うと実技的な部分を中心に着目するわけですが、用いられる道具とは、
その実技や所作、プレゼンテーションの美しさに直接関係するため「方法論」一部と言えます。

 世界中のどこでもその名前を言えば通じるロングドリンクの代表格である「ジントニック」であっても(であるからこそ、とも言えるかもしれません)以上のように微細ではありますが、それぞれ「理論」に則って採択されているものには異なりがあります。
そしてそれが意味するのは、他にある選択肢をある意味では採用しないだけの理由、訳、つまり「論理」があると言えます。どれほど極私的な理屈であったとしても、そこに論理がなかった場合、そこには当の本人でさえ説明しきれない暗黙知があるか、あるいは成果や結果はどうあれ漫然とした取り組みにしかなり得ないのではないでしょうか。
ですから、ある「方法論」がどれほど精緻化されているかについて着目することは、その人がどれほど「実技」の部分で仮説を立て、検証を行い、反省を繰り返してきたかということと決して無関係ではないため、そこにはその人のプロフェッショナリズム、もとい人間性、それはすなわち「個人性」が反映されている「理論」の変遷と暫定的な帰結があらわれていると言えそうです。
 

(3)技能
 
何かについて知っている、つまり何かしらの情報をもっている、あるいは知識を備えていることと、何かについて知っておりかつ実際にそれを自らの身体を介し技として使いこなすことができることとは、必ずしも同じではありません。ここで「技能」と言ってあらわそうとしていることを明瞭にするため、いかにそれが「技術」や「技法」といった言葉と異なるものであるのかを考えてみたいと思います。

以下、本稿で行ってきた整理に引きつけ「技法」と「技術」そして「技能」を説明してみます。

 まず「技法」とはつまり、公に流布している「情報」であり、その情報にたどり着くことさえできれば誰もがそれをある種「知識」として得ることができるものだとしています。
すなわち「技法」とは端的に言うと、本稿でも転載してきたような何をどのように用いて配合しているかという「レシピ」といった既に存在している「発想」であったり、また何をどのように使っているのかという「手段」といった現存している「手法」についてあらわす総称だと言えます。

 続く「技術」ですが、先に説明した情報や知識としての「技法」の中から、私達が何を選びまた何を選ばないかという「取捨選別」と密接に関係しているものとして位置づけています。
すなわち「技術」とは、必ずしも万人に適応できる言い方ではないかもしれませんが、誰もが一定の学びを介し、練習や訓練を経ることで習得できるような所謂いわゆる「スキル」、つまり私達それぞれの個人が何を希み、選ぶかに拠っているようなものです。
ですのでこのことは、ある人はこの「技術」を採択し、別の人はその同じ「技術」を採用していないという事態にも連なっています。

 そして最後に「理論」の(3)として挙げた「技能」ですが、一言に換言すると俗に言う「センス」です。
 先に仰々しく「人間性」や「人生」と書きましたが、言ってみればその人がその人である限り、自分が自分である限り、各々が一人の人間として「できること&できないこと」と「経験したこと&経験していないこと」があるという現実と密接に関係している部分に紐づくものが「技能」「センス」だということが言いたいのです。
つまり、様々な「技法」が情報として知識として開示されていたとしても、他の人達が多様に「技術」の選択をしていたとしても、自分自身を見つめたとき、「技法」として取り入れたくても「気質的」にそれがうまくいかない場合、「技術」として会得したくとも「体質的」にそれがむずかしい場合というものが、人生でどのような経験を経てきたか、ひいてはどのような人間として生まれてきたかが自ずと、その人の、自分の「技能」として集約するいうことではないか、ということです。
であるからこそ、ときにはある人によって模索された思想とまた別のある人によって構築されたブランドが相容れないこともあれば、後続となる人達においてもある人は特定の流儀を尊ぶわけですが、やはり同時に一定数走破しない人も存在するというという事態になるのではないでしょうか。
 

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 ではもう一度言い方を変え、簡略的にまとめます。

 (1)嗜好性とは何をバランスとしているかであり、それが具現化されたものがレシピです。
そのため、各個人が醸成する流儀と、その人物が中心となるグループにおける流派の形成と密接に結び付いています。またそのこととは、現代における「趨勢」とは何になり得、それらのうちの何が「常識」として認識されるのか、そしてそのうち何が引き継がれるかにより「歴史」が決まることとなり、後続による「座学」の対象が定まります。
バーテンディングにおける研鑽としての「座学」と「実技」を進めるこで「理論」が浮かび上がってくると考えているわけですがそれはいずれぐるっと回って次なる「座学」の対象として昇華されると言えます。

 (2)方法論とは何をして何をしないかであり、その意味でスキルです。
こちらも「嗜好性」と同じく、個々人の流儀と密接に関わるものですが、特に各流派つまり各グループで構築され、各店舗で採用される「メソッド」や「工夫」「システム」と連なるものとも言えるでしょう。ひらたく言えばある人、ある共同体における「当たり前」があらわれている箇所です。
そしてそのある特定の「当たり前」が、参照され、流布するとそれがある地域の基準、ある国の標準、あるコンペティションのルールに反映される(されてしまう)ことにもなり得ると言えます。

 (3)技能とは何ができて何ができないかであり、その意味でセンスです。
「バーテンディング」とはどこまでいっても嗜好品を扱うものです、そこに所謂「正解」はないのかもしれません。しかしまた同時に「正解はない」という仮説とするのであれば、正解はないにしても、それでもその正解をいかに導こうか、見出そうかと研鑽を積む人間はいて、その点でスポーツや芸術の領域であるように「バーテンディング」の世界にも練度・習熟度・熟達さの高い低いはあります。その意味で嗜好品に優劣はないという主張はあったとしても、嗜好品に向き合う姿勢には属人性が宿ってしまうということは否めません、切り離すことができないのです。
 
そしてこのことは、ホスピタリティという言葉を人間の営みを指す言葉として使い続ける、逆に人間としての営みがあるからホスピタリティという言葉があり続ける、そのどちらでもよいのですが、その意味でホスピタリティを人間を介する属人的なものであることを考えるのであれば、それはすなわち技能についても考え続ける必要があるとも言えるのではないでしょうか。
 

先達の「理論」つまり「嗜好性」「方法論」「技能」が、後続の「座学」「実技」へと連なります。

 先人達の叡智を引き継いでいる部分もあれば、単にまだ知らないかあるいは意図的に黙殺するという取捨選別が働いている場合もあり、その意味では「理論」、そこには各々の、性格、センス、世界観が滲み出しているとともに、やはりそこにはそれぞれの個人がどのように生きてきたか、またどのように生きていきたいかが明瞭に見てとれます。
 そのような個々人がどのような選択をするかによる「潮流」の創造とは、このことに自覚的であるか否かにかかわらず、現代における「常識」の醸成、そして次世代にとっての「歴史」の創造、ひいては業界や産業、文化や思想の行く末の動向によくもあしくも寄与しているということに、大袈裟ではなく、私達はより自覚的になる必要があるのではないでしょうか。
 
 またそれらそれぞれの「理論」が、どのようなスタンスやアプローチ、あるいは「思想」として具現化しているかについては、『バーテンディング【思想1】閉鎖性と開放性』より、多様な流派・流儀、様々な世界観・ブランドの整理を始めるため、そちらで詳しく著していくつもりです。