バーテンディング【思想1】閉鎖性と開放性
イノベーションについて綴られた『イノベーションのジレンマ』の著者であるクレイトン・クリステンセン氏は「一時代を築いた革新的イノベーションは次世代には負債になりうる」と述べました。
確かにある時代にある世代によって構築されたものがもし普遍的ではないのだとすればそれはすなわち何かを取りこぼしているにもかかわらず、しかしそれが一定の堅固さを備えるまでに育てられた場合、また別の時代を生きようとする別の世代にとってそれは乗り越えなければならない「課題」にもなり得るのでしょう。
しかし世の中がいかに変遷しようともすべての時代を貫く普遍などと呼べるものがないという視座に立つのだとすれば(もしこの意味での普遍があるとすれば歴史が完結したとき、帰納的に見つけることはできるのかもしれませんが、現状)この乗り越え乗り越えられの繰り返しとは、どこまでいっても「普遍」を探すものではなく、つまり何が正しく何がそうではないという「正解」を見つけようとする旅ではなく、旅を続ける中で過去では何が、そして現在では何が納得できる「応え」となるか、そしてそれらを眺め何が次の「希望」となり得るのか、という模索を促す「挑戦」にしかなり得ないのではないかとも思います。
その意味で、これまで私達が価値と信じ受け継いできたこと、そして今なお紡ごうとしているもの、つまりそれが「希望」なのですが、しかしそれらが必ずしも後世にとっての「希望」にもなり得るとは限らないのです。
ですので、今日の「希望」とはいずれ乗り越えられ得るからこの「希望」なのであり、それが持続する時間軸の長さに誤差はあれど、それがいつまでも「希望」としてあり続けるのだとすれば、それが同時に意味することとは、希望を抱かせるからこそそれらは呪縛や束縛としての側面をもつ遺産となるのではないでしょうか。
過去に存在したものでも、今思い描くものであっても、その両面性のどちらもが揃うことで「希望」であるため、一方だけではなく、次の「希望」の創造に寄与する「叡智」としての役割を担えるものとするためには、そのどちらにも同じように向き合い、思慮深くあることが必要だと考えています。
そして考えることで、実行し、体現し、実践し、実現しようとすることとは時代が変わり、世代が順送りであるという点では、先程「普遍」を探すものでは必ずしもないと述べましたが、この旅それ自体は「普遍」であると言えます。
この「希望」についての解釈は、私、あるいは私達が関わる「バーテンディング」という営為に関する歴史の変遷を反省する際にも重要となります。
特に「日本」という土地、環境、国において、「バーテンディング」という嗜好性にまつわる専門性、業界、世界とは、歴史的にはある時まで「閉じていた」ものであり、翻って現在は「開かれている」ものであるとみえます。
その他様々な領域や分野でも同じような推移、すなわち揺り戻しや往来が起こっているのではないかと察しますが、「日本」における「バーテンディング」の過去の「閉」の内実とは「閉じられすぎていた」であり、また現行の「開」の真相とは「開かれすぎている」のではないか、というのが本連載の出発点あり、本稿で言及したい点なのです。
もちろんそのどちらもにも過去あるいは現在で「希望」としての役割を担うことのできた側面はあるのだと思います。しかし本稿からはじまる本連載で注目していきたいのは、それら過去でも現行の話だけではありません。
これまでは「閉」または「開」、そのどちらかだけでしかあり得なかったことでその一定の期間はうまくいったのかもしれません。またその間はそれら「閉」と「開」が互いに交わって交点を設ける必要性もなかったのかもしれません。
これまで「閉じていた」ことによる功罪と、それに対するカウンターとして「開いてきた」ことによる転換とそれらが手を取り合わなかったことによる弊害が反映された現状について、想定し得る範囲で指摘することを介して、ときに衝突や齟齬を起こしかねないもの同士であるそれら「閉」と「開」をいかに相反させず混淆している状況を実現することが、なぜ「バーテンディング」という営為をより文化的なものとして推し進めることに寄与するのかを、私は示していくつもりです。
そして次に「叡智」とも「負債」とも受け取られる「希望」とは、この現状の矛盾を矛盾なく矛盾のまま乗り越えることでしか実現できないと私は考えています。
バーテンディング【思想2】世界観、流派、ブランド
近日公開予定