「変化すること」を強要されている気分。変化しないことを後ろめたく感じる私。
今朝は大好きな人とオンラインでおしゃべりすることから始まった。
ちなみに、今この瞬間、かなりのタスクを抱えていてnoteより先にやるべきことはたっぷりあるんだけど、あえてこれだけは書いておくことにします。
これ書いたら通常の5倍速で取り掛かるので、関係者の皆さんお許しください。
大好きな二人とは、中村香菜子と竹端先生だ。
2月の末以降、定期的におしゃべりをしているメンバーだが、前回から既に3ヶ月近く経っていて、かなり「お久しぶり!」な印象。
私にとってこのお二人とのお喋りはとても楽しみな時間だ。
…と、ここまで勢いで書いたが、実は直前の文章には1個フェイクが混ざっている。嘘と言うには大袈裟だが、小さなフェイクだ。
二人とのお喋りは楽しみにしているが、ただ手放しに楽しみなだけではない。実は毎回少し緊張している。
中村香菜子は、自分のことを自分の言葉で言語化するのがとても上手だ。いつもいつも何かに疑問を感じ、常に考えている。
竹端先生は、ご自身の言語化はもちろんのこと、相手の話を引き出して、それをまた言語化されるのがお上手だ。
そこにきて私はと言えば、自分のことを自分で話すのが苦手で、いつもまとまりのない話に終始してしまう。もちろん、そのことをお二人が責めることは一切ないし、私自身が自分のことをそう思っているだけだ。この辺りが、毎回こみ上げてくる緊張感とプレッシャーの原因ではないかと思っている。
とは言え、やっぱり今日も楽しかった。
冒頭、竹端先生に「ここ数ヶ月の良い変化は何ですか?」と聞かれた。
相当頑張って捻り出した。……でも、何となく自分の発言にしっくりきていなかった。
同じ問いに香菜子と竹端先生が答えた。
日常のこと、子育てのこと。
それを聞いて思った。
「あ、私あんまり変化してないわ」
ゾワっとした。
続いて、「不安に感じることはあるか?」と聞かれ、その瞬間の気持ちを正直に話してみた。
「今改めて二人の話を聞いて思ったけど、私、大して変化してません。ただ、社会が大きく変わろうとしていることは存分に感じているし、そこに対して個人レベルで変化が求められている雰囲気も感じている。だからこそ、変化していない自分を不安に感じています」と。
スマホからFacebookのアプリを削除してから、1ヶ月以上が経った。
友人の投稿を見るたびに、何も変わらず社会に貢献できていない自分をもどかしく思う気持ちが大きくなって、えいっ!っと削除した。特に不便はない。
比較的、色んなモノやコト、状況や情報に影響されやすいので、思い切って削除して良かったとも思っている。
「変化してない」と言い切ったものの、4月から学校に通い始めたし、つい最近は引越しもした。むしろ変化しまくっている。でも、根本的に何も変わっていないと後ろめたく感じる。
社会から「変化しろ!」「適応しろ!」「今こそチャレンジだ!」と勝手にプレッシャーをかけられている気になっていた。そこに応えられていないことに勝手に不甲斐なさを感じていた。
他にも色んなことを話した。
いつの間にか「分かった気になっていて、違いを知る、分かろうとする行動をサボっている」ことに気づいた。
何と傲慢だろう。
違っていて当たり前で、その違いを楽しむこともできていると思っていたのに。サッパリだ。
人との対話の中でしか見えてこない自分というものをあると改めて知った。
全くまとまりのない文章になってしまったが、まぁ別に誰かに読んでもらうために書いているわけでもないので、今日はこれでよしとしよう。
タスクに戻ることにします。