【創作】原像を愛する男
ここに一人の男があり、本名ははっきりしないが、ハンドルネームを「思想」とかいう。だから私はこの男のことをただ思想とだけ呼ぶことにする。
思想は、二十代の半ばでどこからともなく都内の文系学部に入学してきて、かといって読者が想像されるように孤独を通したわけでもない。なにか哲学の研究会などに出没し、わけのわからないことを言っては、周りからわけがわからないと思われていたが、なぜか面白がられていた。
思想はある時から部屋に籠ったっきり、最寄りのコンビニに買い出しに行く以外は外に出なくなり、大学の単位もそっちのけで、聞くところによれば二十一世紀も四半世紀を過ぎようというのに『共同幻想論』だの『心理学と錬金術』だのといった本を読んでは、作成したSNSのアカウントで、やはりわけのわからない考察を並べ立てていた。
そのわけのわからなさというのが、単に気の狂った男の書く発言などといいうようなたぐいのものではなかった。というのは、彼の書く考察には、しだいに読者がつくようになっていったからである。彼は、SNSでは満足しなくなり、投稿サイトにアカウントを開設し、考察記事を展開するようになった。
思想の考えは、以下のようなものだった。
・自由を制約するのも幻想であり、自由を促進するのも幻想である。
・分離不安による過度の同一化が、憑依的な精神状態をもたらす。
・目下の課題は愛の神の庇護のもとで人間界の唯我独尊を目指すことである。
思想には、精神の混沌を混沌のままにしておく悪癖があった。そして、その過度の曖昧さが彼の不誠実な魅力の源泉でもあった。彼はそれを自覚もしており、それに、現実は整合的ではありえないから、という理由づけをしていた。
彼がそんなことを話していると、SNSのダイレクトメッセージに、女性からの連絡があった。LINEを交換してほしいというものであった。言い添えておくと、思想はそのような生活をしていても、寂しさ、という感情は人並みにあるほうだったので、言われるがままに交換をした。
その日のうちに通話をした二人は、意気投合し、三日目には早くも交際するに至った。それは、ひとえに彼女の積極性、押しの強さによるものだった。
思想は軒並みのSNS廃人でもあったので、早速そのことを自らのアカウントで報告した。彼は自分の価値が高いことに自慢を持っていたのである。
女性は、とても欲望の強い性格だった。そこで、彼はこれまでの学習の成果を当てはめ、彼女に「分裂質の傾向あり」との診断を下した。そして同時に、彼は彼自身の神経質を癒す手立てとして、彼女と相互触媒になることで相手の分裂質と自身の神経質を中和する道を模索し始めた。彼らは、相互に相手の読んできたジャンルの本を読み始めた。そして、思想は、現代文学を読み、彼女に習いながら絵の練習を始めた。
思想は彼女に母性を求めはじめた。彼はそれをユング心理学的に自己分析していた。否、ユング心理学的、というよりも、ユングの人生に自分を引き寄せて分析していた。これは注目すべき大きな違いである。ハハッ。それを彼は、その情報を既に共有していた親友に報告した。友達は彼の交際に警鐘を発し続けた。
その後のことは、情報がなく、私にはわからない。ただ、私が思うのは、泥の中からのみ米が生育してくるように、泥のような恋愛の中からのみ、わたしたちの東アジアの命の糧は生まれてくるという、おぼろげな思想である。
2025年2月15日