
道行きの断章(配布第一回)
一 書くこと。——百四十文字の短文は、上手に工夫しないかぎり、たんに書く内容を貧困にするだけでなく、それを日々書く人の精神までも貧困にする。例えば、「○○だ」、こう書くやいなや、彼の精神はそこにおいておよそ短文では捉えることのできない複雑さを喪失し、思考と発想が貧困になる。但し、元々思考も発想も持ち合わせていないたぐいの人物は別にして。しかし、人の道行きを導くものは、たいてい短文である。例えば、教科書の内容の大半を忘れても、よく覚えているコラム、たまたま見かけて読書のきっかけとなった名言等々。長い内容は能力を形成し、鋭い一言は方向を決定する。
二 書くこと。——制限のない長い文章を書く時であれ、必ずプロセスには区切りがくる。しかし、自分で書いているものであっても、そのプロセスがいつどのように終わるのかはわからない。或いは、そうでなければよい書き手ではない。しかし、彼以外がその文章を事後的に眺めるとき、読んでいてだいたい終わりを想定することができるのである。ちょうど、庭園で育てられている竹自身が最も自らの成長過程でどこに節がつくのかわからないようなものである。
三 インターネット。——この国のインターネット空間は、2ちゃんねるのVIP板、ニコニコ動画、なんJ、嫌儲、Twitterと推移してきたが、わたしの直感では、ただ表面上の言葉遣いだけが変わっているだけで、その話されている内容の本質には変更がない。そのうえ恐らく、そこにいる構成員の主要をなす本質も変わっていない。
四 インターネット。——SNSでは、自然とインフルエンサーの粗雑な主張が目に留まる。わたしの見出したところ、そうしたつぶやきにただちに反応して何か一言反論を言わなければ気が済まない人は、経済の観念に乏しく、しかも冷静沈着に考えて計画的にものごとを実行するということに向かない。この場合、誰しもと同じように計画的な思考を鍛えるようにとすすめるのは得策ではない。むしろ、計画主義、規約主義のヘゲモニーから逸脱して、彼らなりの別様な選択能力を養うことが、彼自身にも社会にも望ましいのである。
五 人間関係。——二人での会話なら好むが、三人以上で他の誰かが主となって話すとなると途端に会話が苦手になる人がいる。こういう人は自分の支配の及ばない事柄に疎いので、倫理的主張ともなれば規範と存在、さらには全成員をも包括する一元的な主張となり、信仰においても、「わたしたちの救い主」ではなく、「わたしの神様」、「わたしの友である主」などのかたちとなる。彼は、自分が普通ではないことをよく知っており、他者を語りたがるが、彼が他者と関係することはないのである。いわば、彼が人と関わるとき、彼は自分に従う者としての友達か、自分の心の安定装置としての友達と関わるのである。
六 人間関係。——二人を好む人。彼は、根っからの一神教徒か、汎神論者、さもなくば形而上学者か、エゴイストであろう。自覚のある者は自分なりによく考えて選択するがよい。彼が形式上さまざまな神社に参拝しても、彼が多神教徒となることはないであろう。また、彼は真のヒューマニズムにも目覚めないであろう。彼がいつも、またどこに行こうと見出すのは、裸の人間ではなく、自分と同じ服を好む同人である。
七 人間関係。——奇人。——奇人は奇人であることを自覚している。なぜなら彼には知性があるからである。一般に、知性の低い奇人は奇人とは呼ばれず、例えば遅れた人やばかとして扱われる。奇人の異質さは、知性とは別のところに起因することが多い。したがって、彼を社会的に正しく教育しようとしてもむだである。彼が奇人であることが、まさに彼と彼の周囲にとっての健康さなのである。
八 有機的認識。——朝は交感神経が活発であるにもかかわらず、心は清新である。だから、単純推論で、交感神経が活発だから苦しくなり、副交感神経が活発だから平安というわけではないことがわかる。では、朝の清新は何によって起こっているのか。このことについての認識で言えることとして、さまざまに事細かく分析するよりは、生ある人間としての認識には、文化的な伝統のある認識や、伝統哲学的な認識がお似合いということである。細かな科学的分析は、確かに事象を細分化してその対象を標的にする場合には向いているが、全体性のある生については似つかわしくない。わたしたちは一人一人、また社会として、また自然にあって、あらゆる有機体の位相の重なる複合体であるからである。だから、文化的認識は必然的に有機的認識となる。そのため、それを首尾よく行うためには伝統的な文化を学習しなければならない。それとともに、分析的認識も怠ってはならない。文化は健康をもたらし、分析は別様の可能性へと経験の可動域を拡げるからである。文化的認識を獲得するよい方法は、文化的に書かれた本を多く読み込むことである。ここで、最新のメディアの教えるところは役に立たない。最新のメディアは、むしろ無為に、或いは広告として新たな無駄な購買意欲の向上を目的として、無駄に細分化された知識を伝えるところが大きいからである。しかし、ここから少し考えるとわかるように、そうした分析的知識も、確かにその都度の訂正に開かれていれば大きく役に立つし、先述したように可動域を拡げる。だから、結果するところとして、わたしたちは有機的な教養と細胞的な知識の両者をともに学んでいかなければならず、どちらかへの極端な偏りは弊害が大きいのである。
九 文化。——人は、現実を知るために文化を学習していくのではない。いわば、文化を学ぶ人には、或いは文化の円環に入った人には、文化は第二の自然として立ち現れるのである。例えば、ニーチェのアフォリズムは専ら第一の自然であるいわゆる現実そのものについてのアフォリズムであった。しかし、多くの教養ある書物は、まさにそれが教養的である度合いに応じて、第二の自然の円環において書かれている。いわば、著者の精神は第一の自然の中にはなく、かりに第一の自然を認識し、第一の自然にはたらきかける場合においても、すでに認識も行為も文化によって獲得された目、耳、手で、なされるのである。例えば、わたしたちが印象派の絵画を鑑賞したのちに遠くの山の風景や近くの公園の池に生える花を観察するとき、既に先に観た絵画の眼でそれを観察するようになっていくのである。わたしはそうした目や耳や手を多く獲得した人を、その度合いに応じて「文化された人」、すなわち「カルチベートされた人」と呼ぶ。文化的な変数を獲得するとは、すなわち自己を文化的伝統によって耕すことである。もちろん、大衆と呼ばれる人々も第二の自然のなかで活動しているが、彼らにとっての第二の自然は、いわゆる彼らが「現実」と呼ぶもののことである。だから、大衆の述べる「現実」とは、第一の自然の事実への志向性を指すものでもなく、高度に文化された第二の自然でもなく、たいてい、それぞれの仕事によって生起した現実感である。
十 個体化。——個体化は、まさに文化的なるものや他人や神といった<他者>に同一化するようなしかたで同時に<他者>一般から差異化し成長していく過程の謂いである。人間は身体的な固有性を有すると同時に文化的構造の複合体として他者の欲望を欲望している活動でもあるので、自己とは、つねに自己し続ける活動態を言語活動によって停止させたところに登場する仮象である。すなわち、わたしはいつもわたしになり続け、また、わたしし続けているのであるが、そのはたらきはなにも努力によって得られるのではなく、例えば個体が細胞の交替によってつねに個体系を維持し、しかも免疫系において劇的な変態を遂げ、そうして個体化し続けるようなしかたでわたしし続けているのである。だから、個体化とはなにも作為的な努力のことではない。
十一 科学に関する覚書。——科学は、自然言語ではなく数式を主とした交通形態をとる。これによって、自然言語の歪な主従関係から解放され、数学を心とした交通が可能となる。良く教育され、すなわち悪いかたちに教育されてしまい、当初持っていたはずの知性を言語の覆いによって喪失した人には、このことがわからない。だから、よく言語を捨て、以前の知性を回復しなければならないが、それを見出す人は少ない。
十二 神の義。——聖書も老子も、経験として同様のことを説いている箇所がみられる。すなわち、天の道や、神の国、神の義は、それを先に得て、人に与えるような者になれば、かえって豊かになり、必要なものは後から与えられるという、あの弁証法のことである。老子について「信仰が有る」と断言したキリスト者は、全く以て正しく、「老子は論語を読むために、新約は旧約を読むためにある」と語り合ったキリスト者の友の言うことも、概ねこれに沿う。真実、天の道は夜の歌からでも聞こえてくる。すなわち、夜中に目を覚ましていようと、天の道、神の義は、思いがけず来る。この知恵があの真理の正体であるとすれば、誤りなく、真理は人を自由にする。
十三 ニーチェ。——ニーチェは信仰にも誠実に向き合っていることが、彼の著作の断章から伺える。だから、彼が宗教について語る時、それは一旦真実であると認める。しかし、その真実は、まさに彼の言う「極北の民」の真実であり、彼の主張は受容し難い。彼において大衆的な信仰は、恐らくそれが道教であれ檀家仏教であれ、それは大衆のうちの「余計な者」、すなわち生きるに値しない命を余分に生かすものにすぎず、それは否定し去るべきものであった。彼が「余計な者」を語る時、それを聞き受けて熟慮する者は、誠実とは言えるはずであるが、しかし彼が自らの主張をし始める時、彼は「認識の戦士」ではなく「実存思想家」に頽落してしまっているのではないか?
十四 認識の戦士の準則。——認識の戦士は、誰よりも本を読むのではなく、聞いたこと、考えたことを手掛かりに、何よりも自ら行為して確かめなければならない。そうすると、確かめるという所期の目的以上の成果が得られるだろう。……自ら知れりとする者は自らを超越者の視点に立たせている。これの最たる欺瞞が「客観性」という語に集約されている。客観的でないしかたで学知を成り立たせるしかたは可能である。そして、「自ら知れり」ではなく、知らないことを認め、ついに何もわからなくなったときに、自らを段階的に動かしていくこと、しだいに別様のことを実行するように行為することが、認識を可能にするはずである。認識の成果物は手掛かりとして機能するのだから、予想を憶断に高めたり、ただ思索するだけで認識を足れりとするような、そのような怠惰を認識と言うのではなく、行為なき認識はおおよその領域であり得ないのである。だから、認識の戦士たる者、友よ!誰よりも憶断を捨てて、論理を捨てて、行為しなければならない!
——しだいに、考えることではなく、書くことが考えることとなる。
十五 ラジオ。——ラジオはいい、インターネットと読書だけだと、受動性を忘れる。能動性だけではなく、受動性を思い出すためには、テレビやラジオを活用しなければならない。とくにラジオは、なにか手がかりになる情報が存外に流れてくる。例えば、ふと宣伝で古い音楽が流れてきて、思わず聴きたい気持ちに駆られて、自分のデバイスで再生する、等といったこと。また、ぼんやりとするのが苦手な人がぼんやりとするときに、ラジオは活用できる。読書ばかりをしていると、ラジオを聴くときにさえ最初うまく同期できず、流れてくる音声をいちいち文字化して解釈するようになっていることがある。その場合、経験を訂正するようにはたらくことができる。
十六 道徳の諸説。——ニーチェは、ソクラテスの道徳説の賤民性を指摘する。すなわち、ソクラテスの言う、悪人が悪を為すのは、そもそも悪人でも自ら悪を為されるのは嫌いであるから、隣人が悪を為すことを好むはずがない。よって、悪人は認識の誤りによって悪人なんのだ、という説を。ここには、悪を結果だけから捉える道徳説が伺える。功利主義も同様である。しかし、動機から捉える学説はどうか。動機説は、カントなどがそうである。わたしはそれに賛同しない。わたしの言う「良心」は、カントの「善意志」のようなたんなる動機説とは全く異なり、それとして直観される、世に理解されないたぐいの「正しさ」を包含している。老子も、「正しい言葉は、常識に反しているようだ」と言っている。実に、イエスも世に理解されないことで十字架にかかった。わたしの愛する人たちは、世に理解されないが、確かにそれとして経験を善く導く方向性を持っている。わたしは彼らを愛する。そして、そのことをとおして生命を愛する。それが、良心というものである。では、結果説でも動機説でもないところのそれとは何なのか。わたしはそれを、良き方向へと導く手掛かりとして捉える。人々の間には、身体の圧倒的な多様性がある。精神が多様なのではない。精神が多様なのは、身体が多様だからである。したがって、精神の産物からわたしたちが受け取るものも、むしろそれぞれ異なることが自然であり、またそうすべきである。そうだとしても、生命には共通性があり、教えにも共通性が生まれる。古今東西の聖者は皆類似したことを言う。だから、それを極めよ。そうすれば良い方向へと進むだろう。しかし、常識の安心感への固着は、破滅である。正しい言葉は常識に反するからである。より良き生への嚮導……、これが良心と言うものである。
十七 本能と知性。——信と知の問題は、本能と知性の問題である。ここで、Geistというあの概念を再考しなければならない。Geistは「精神」と訳されるが、実際にはその「聖霊」なるものは多分に身体的ではないか?人の高貴さは身体にあるとすれば、これもあながち間違っていない。むしろ、こう考えられないだろうか。精神の交通によって、身体が再組織化される。そうすることで、身体がより高貴なものとなる。しかも、例えば祈りの際の言葉は、身体の求めから発せられる。
カントは、理念の問題をただぼんやりと理性に紐づけて考えていた。問題は、理念の起源史、理念の生成ではなかったか。そうなると、精神の交通がいかにして行われているかを熟考しなければならなくなる。確かに、どう取り繕ってもわたしたちを良く導く価値尺度は上位のものから送信されてくる。それを受けて、わたしたちは問うよりも先に理念に嚮導されている。問いから嚮導されるのではなく、理念に嚮導されているというのが真実に近い。ここで、ハイデガーの議論が、きわめてプリミティヴであった点を指摘できるが、彼の場合、それをわかっていて敢えてして、ソクラテス以前の問いを反復したのである。しかし、ソクラテス以前の自然哲学者たちが存在の生成の問題を考える際に、理念に嚮導されていなかったなどということがあり得ようか?ここに至って、わたしたちは理念の生成をますます問わなければならない理由を発見するのである。これが、まさにニーチェが『道徳の系譜』と銘打って考察した、価値ではなく、諸価値の価値そのものを問う問題意識であった。
十八 書くこと。——上手に話せるが、自分だけで上手に書けない人は、自分の考えを自分そのものとは分離して、そのうえでその考えに向かって問うことを習慣にするとよい。そうすれば、書けるようになるだろう。話せるということは、それが確かに活動態として作動しているということであるが、そこに対話相手などの問いかけがなければ表現されない仕組みになっているのである。だから、考えに対して問いかけることは、書くことを可能にする。
十九 読むこと。——書いていると、はっきりと書いているにも関わらず明らかな誤読をされることが多いことがわかる。それは、読むこと、及び見ることについての人間の本性から出ている。人間は、見ることをそう忌憚なく行っているのではなく、先入見に都合のいいように加工して事物を観察している。そのため、実を言うとどのように見えるのかが予め定まっているということがある。
しかし、読むことによって経験は変容していく。そのことは、長いものを長く読まなければ生じ得ない。だから、長いものを書き、長く対象に触れなければならないのだが、そのためには、それ相応の労力と、それ以上に愛が必要である。愛のないところに変容はないとさえ言えるのである。
二十 有用な孤独。——「孤独の大切さ」、「孤独の創造性」……。こうした言葉に惑わされてはいけない。ニュートンの創造的閑暇であれ、デカルトの炉部屋であれ、なんであれ、有用な孤独は総じてつながりの中で選ぶ孤独である。そこで不安を煽る者もあるが、実際には、地上に生きている限り、人間というものはいつもいたるところで群れているものなので、自分の錯誤でそれを選択しないかぎりは、まず孤独になることを危惧することはない。それよりは、容易に人間の規範に呑まれることをば恐るべきである。
真につながりを喪失したり、ただ抑圧的な家族や上司のもとでの孤独は、神経を病んでいき、人間性を喪失していく。有用な孤独はつねに、例えばあたたかみのある家族があったり、仲のいい友達がいたり、何らかの共同体に属していたりといったなかでの、適度な孤独である。それは先人たちをみてもそうであると思える。戦場は往々にして平時以上に連帯がある。戦場を経験した者の言う「戦友」とは、どうやら敵軍の戦士に対してもそう思うものらしい。そこで、有用な孤独を得たいならば、まず早いうちにつながりや共同体を形成しておくことがよいだろう。しかもそれは、先述した理由から、いつでも可能なのである。
二十一 老子。——友よ!騙されないでくれ!彼は若い。少なくともきわめて若い精神の産物だ!私にはそれがわかるのだ!なんだって?世の初めから居られた救い主は三十代ではなかったなんて言わないでくれたまえ。わたしは真剣に話しているのだ。
……事実、老子という書物は、古今東西の聖者の心持ちのエッセンスのようなものであり、往々にして聖者とは、イエスにしてもツァラトゥストラにしても悟りを開いたブッダにしても、三十代というのが相場なのである。老人はかつての自分を否定し忘れることで健康を保っている。だから彼らを責めるわけにはいかないが、畢竟若いころは常識とは別様の考え方をして生き延びたのではあるまいか?あなたは両親から、彼らの後悔からくるいわれのない説諭を受けたことがないのか?生存者バイアスは、常識をも構成するのである。
二十二 去勢。——都市において若い友人同士の付き合いが、「互いに自らをくだらなくして行く」過程だということは、太宰治が彼の『人間失格』で報告したことだが、これは、都市の砂漠におけるオアシスのような交友が、結果的に、集住したポリスにおける交友の如く、自分たちの苦境に対して道徳に脱出口を見出すという錯誤を起こし、相互のエコーチェンバーによって互いに善へと高められていく、というあの過程と一致する。すなわち、精神的な人格の交わりを求めれば求めるほど、去勢されていき、欲望も思考も成型されていくのである。だから、われわれ真の良心に生まれついた者は、去りがたいところを去るという苦境を人生で一度は経験しなければならない。その際、くれぐれも友の祝福を忘れぬようにするがよい!主における統合があるように!エヴァ―生命―が与えられるように!友よ!ハレルヤ!
二十三 哲学書の真価。——哲学書は、わかるために読むのではなく、わからないことを増やし、しかし方向性を嚮導されて、次なる展開に繋げるために読む。入門書や概説書、二次文献の類は反対に、わかったことにして打ち止めにし、一時的な気休めをするために読むものである。彼はそう遠くへ遍歴することがない。
理解するということは、現在の自分の知的範囲内において理解をしてしまうことであり、いわば停滞的確認の別名である。精神的成長は、理解を超えたところに出現し、わからないままに導かれていく。そうして、いずれ「そういうことだったのか」というかたちで、例えば煙草をふかしている時や、一日を終え眠りにつくときのおぼろげな瞑想になってはじめてわかるということが起きる。成長を伴った良き理解はつねに事後的である。事前にわかる、ということは、たとえ論理的に思考していると思い込んでいる場合であっても、つねに停滞的である。
二十四 常に別様の可能性。——何かの事態や言説、また経験に対して、常に別様の可能性を考えることは、結果的に自分の身体に適合した個体化を遂行することにつながる。わたしたちは、別様の可能性を考えるときも、いつも自分の身体に適合的な可能性を模索するのである。そして、別様の模索は、決して批判や反省ではない。批判や反省は、まさにそのことをつうじて経験を聞いたままのところに安定化させてしまう。まさに、別様のことを楽しく考えることが、まさにその楽しさという頗る身体的な快適さをとおして、自分なりの個体化を遂行する方向に導くのである。だから、一生懸命に批判をするのではなく、自らの適意となるところによって模索する習慣をつけるとよいのである。だから、このことについて、努力しないように努力する、ということを言いうる。正しいことというのは、往々にして常識に反しているのである。
二十五 孤独と人と神と。——孤独が依存症という行為依存をもたらすということはよく知られたことだが、それに対して人を依存先にすればいいという問題解決の提案を見かけることがある。しかし、人というものは、たとえ親友であれ両親であれ夫婦であれ、あくまでもたんなる移行対象でしかない。その彼方に、老子の言う道や、荘子の言う虚無の実在、朱子学の敷衍した無極=太極の図式、西アジア一神教のThe GODなどがあるのだ。もちろん仏教は―この何よりも現実的な思想は―、何かに依存することではなく、執着を放下し自己を放下する道を教えるが、たとえ曹洞宗の大本山永平寺に入山人でさえ悟っている人は少ないようだ。だから、その自信がない者は、老子を繰り返し読みあの聖者の精神を刷り込み、聖書を読み教会に行き、移行対象に頼りながらしだいに他者形成をしていくのがよいだろう。他者とは、依存できるところの、甘えられるところの、人間ならざる人格であるところの他者である。生身の人間は、離れたり、場合によっては死ぬのである。彼が死して、我も苦境を経なければならないとすれば――?畢竟、人に頼るのではなく他者形成することはあなたを良く導くだろう。
二十六 群れと孤独と友愛。——ニーチェの著作を読んでいると、彼の計算高さが伺える。すなわち、彼は孤独な哲学者を装いつつ、「われわれ」という言葉を用い、また、ブナの木の下でニーチェを中心に、彼に惹かれる若者たちと語り合ったりといった描写で、彼を中心とした群れをフィクショナルに感じさせる仕掛けを作成している。すなわち、彼を孤独な哲学者とするのはなにかの誤りなのではないか?やはりここでも、真の孤独は害毒であるというあの定式が姿を現すのである。——国家という家族に所属するのではなく、「われわれ」であることは、なにも真新しいことではない。その仕事はイエス=キリストである。イエスは、「皆さん」とは決して呼びかけなかった。注意深く読むと、彼は「あなたがた」と呼びかけている。ツァラトゥストラは病んでいる者たちにやさしい。同様に、イエスは、「わたしが来たのは罪人を招くためである」。彼らは、病んでいる者たちの群れを率いるあなたがたの友なのである。古代ギリシア人、ニーチェ、イエス、孟子、近代主義者……、彼らはフィリアの感情をよく知っていて、その至高性を体得している。だから、彼らは「友」という語で、また「友愛」という語であなたがたを招く。いわば、信仰の次元、思想の次元を超越した、友愛への讃美が、あなたがたの一人一人の対としての友愛を祝福しているのである。
群れの意識が、国家ではなくして人類となるとき、わたしは軽やかに生きていてよいという思いに導かれる。細かな利害関心ではなく、それがなんであれともかくどうにかこうにかやっていこうというところに、真の人類のGeistが隠されているのである。——それは生命に通じる道行きである。
責任、切断、家族——友よ!創世記四十三章第九節を読み、ユダヤの責任の思惟を感得した。ユダが弟のベニヤミンの生命について、父ヤコブ、すなわちイスラエルに対して全責任を生涯負うことで、全家族の生命を守ろうとしたこと。父はイスラエルである。彼は民族の生命を担うために、悪を蒙ったのだ!おわかりだろう?主の罰が降るときも、まさに自らがその罪を蒙ることの責任。わたしはそのこともできないほどのより低劣な罪人であった。アーメン!フィリアにおいて善へと嚮導されるのだ。愛のないところに真理はない!判断とは、審美のことである。闇雲に「ハレルヤ!ハレルヤ!」と井戸端で言って回ることが愛ではない!讃美ではない!むしろ、誰に対しての讃美なのかを「審美」すること――判断すること――、それが、主の声を聞き分け、人のまなざしを見分けることの前提ではなかったか?そうだとすれば、わたしは間違っていたのだ!自己の間違いを認めるとき、実る稲穂が首を垂れるように、高められ、実りが豊かになる。——それならば、闇雲な自己批判ではなく、自ずから自然に首を垂れることが「天の道」というものではないか?水は意図ではない、したがって、聖者の善とは、無極の本義は、自ずからそうならなければならないのだ!そのためには、修養として身を練り心を鍛え、学ぶことを第一とする道行きが必要ではないか――?
しかし言っておく。主の山に、備えあり。すなわち、与える者は豊かになる。すなわち、着るものと食べるものより先に、神の国と神の義を求める心的機制。君もそのことを悟らなければ示しは得られないのではあるまいか?
――しかし、いみじくもマサラダが教えるように、昔々の思い付きは「ム責任集合体」ではなかったか……。
2025年1月21日